今回の列伝は、日露戦争の英雄・東郷平八郎。明治維新から37年、東郷率いる日本海軍は当時世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を撃破する。それは世界列強が驚いた歴史的勝利だった。圧倒的な軍事力の差をいかにしてはねのけたのか?勝敗を分けた東郷の決断に迫る!
東郷平八郎は幕末の頃、武士の四男として薩摩に生まれる。現在の鹿児島県、加治屋町だ。実はこの加治屋町は明治日本を引っ張っていく人材の宝庫で、郷土の先輩には維新の三傑として知られる西郷隆盛や大久保利通がいた。幼いころ、平八郎は相当な乱暴者で、上級武士の子弟を相手にずいぶん喧嘩をした。手荒なことが大好きで、よく両親に叱られていたという。
1862年におこった生麦事件がきっかけとなり、翌年薩英戦争が起こる。このとき東郷はわずか16歳にもかかわらず初陣を飾ることになる。腰の両刀のほか、火縄銃を肩に担ぎ勇んで家を出る東郷を、母・益子はただ一言「敗くるなよ」と言って激励したこうして東郷の軍人人生の第一歩が始まったのである。
薩英戦争で、戦争の惨劇を目の当たりにした東郷は、自分は軍人には向いていないのではないかと思うようになっていた。しかし、恩師・西郷隆盛の説得により、東郷は海軍に入ることになった。この時代、薩摩藩も海軍力の増強の必要性を実感し、有望な若者をイギリスに留学させる計画を進めていたのだった。そのころ、軍人ではなく蒸気機関車の技師になろうとしていた東郷は、西郷を訪ねてイギリス留学を相談したのだが…
「海軍のことを学ぶためなら留学してもよい」
西郷は日本がこれから世界に伍していくためには海軍力が不可欠であること、さらにその海軍に東郷が必要であることを断固たる口調で説得した。
「これから、日本が独立を保ち、世界に伍する国になるためには、海軍がどうしても必要だ。海軍には平八ドンが必要なんじゃ」
海軍には自分が必要。そう期待をかけてくれる西郷の言葉が嬉しかった。
こうして東郷はイギリス留学を果たす。イギリスの海軍力は当時の日本をはるかに上回っており、東郷はそこで海上法規や国際法、天文学などを学び国際人としての知識や教養を身につけていく。イギリスに渡って四年目、東郷は練習帆船「ハンプシャー」に乗り込み、日本人として初の世界一周航海を体験する。
この航海で東郷は、ある重要なことに気がつく。海外に出ると、イギリスの根拠地はどこにでもあり、必ずイギリスの軍艦がいる。イギリスを中心に世界秩序が作られていることを身に染みて感じたのだ。イギリスの力の源泉は、まさに、七つの海を支配する海軍力にあった。東郷は、海軍力が不可欠と言った西郷の言葉を噛みしめていた。
その後もイギリスに留まり勉強を続け、7年の留学ののち、東郷は故国の土を踏むことになる。ところが東郷がイギリス留学中に、日本は激変していたのだった・・・
日清戦争から8年、このとき東郷は56歳。病に伏せ引退寸前となっていた東郷だが、ひそかに戦術論の研究に打ち込んでいた。
そんな東郷に再任の命が下る。対ロシア戦に向けた連合艦隊司令長官に任命されたのだ。異例ともいえる人事だった。
1904(明治37年)2月。ついに日露戦争が開戦する。日露戦争の勝敗は連合艦隊とロシア最強のバルチック艦隊の戦いに委ねられていた。最強の敵、バルチック艦隊にいったいどう戦えばいいのか?
東郷はかつて参謀たちとともに練り上げてきた秘策中の秘策を実行に移す決意をする。その秘策こそが、のちに「東郷ターン」と呼ばれる作戦だった。東郷は海戦中、もっとも危険な先頭のおとりの船、「三笠」に乗船する。しかも司令室ではなく、一番危険な艦橋で指示を出し続けた。
「取舵一杯!」
そして・・・
作戦実行からわずか三十分後、まんまと東郷の作戦に陥ったバルチック艦隊は撃沈。こうして日本連合艦隊の勝利は決したのだった。世界でも、類を見ない海戦での完全勝利。圧倒的な軍事力の差を、巧妙な作戦ではねのけた東郷の戦いに世界中から驚きの声があがった。1年7ヶ月に及んだ日露戦争は、日本の勝利をもって終結した。
まさに軍神!なんといっても、かっこいいから、TIME誌の表紙を飾ったのもうなずける。
肉を切らせて骨を断つ「東郷ターン」は、これこそ武士道!
一番危険な最前線に、こんな司令長官が立って指揮をとったら、部下は頑張るしかない。
かっこいいだけじゃなくて、度胸、懐の広さ、そして部下に対する信頼、
人間として大きな大きいな人だったんでしょうね。