一人に歴史あり。傑作を創りだした偉人たちの人間ドラマ。今回の列伝は放浪の画家・山下清。17歳にしてゴッホの後継者と日本画壇の重鎮らに絶賛された清は一躍注目される。戦争をはさみ日本中を放浪して、その思い出を作品に残した。そして、戦後再び脚光を浴び、自由に放浪に出かけることもままならくなったとき、20年以上前に訪れた長岡の花火大会を再び描いた。
昭和31年。“もはや戦後ではない”と言われた高度成長時代・・・。人々は、ある画家の展覧会に殺到した。観客数は、何と連日2万人、全国でのべ500万人を越えた。その展覧会の主人公こそ、“放浪の画家”と呼ばれていた、山下清。およそ15年もの間、日本全国を歩き回り、放浪の旅を続ける中で、数々の作品を生み出した。しかしその一生は、波乱に満ちたものだった。不幸のどん底を体験した少年時代。戦争を嫌い、過酷な旅を続けた放浪生活。そして人気絶頂の中、密かに抱えていた苦悩—。戦後、お茶の間に愛された国民的人気画家の知られざる姿に迫る!
東京・浅草で生まれた山下清。運命を決定づける事件が起こったのは、3歳の時だった。ある日、原因不明の高熱に見舞われ、軽い言語障害と知的障害の後遺症を負ったのだ。その後、小学校に入学した清は、吃音をからかわれ、理不尽ないじめに遭う。家庭も貧しく、父は酒癖が悪く、母に手を上げ、喧嘩が絶えなかった。その後、母は再婚するも、新しい父もまた酒乱だった。逃れられない苦しみの日々・・・。そんなある日、前途に希望を失った母は、親子心中を計ろうとする。幸いにも救われた清は障害のある清を育てる事が困難だった為、養護施設・八幡学園に預ける。
清の八幡学園での生活が始まった。ここでは、周りから馬鹿にされることもなく、 周囲にすこしずつ溶け込んでいった。そんなある日、清は運命の出会いをする。それは学園の授業の一環でやっていた、“貼絵”。清は貼絵に夢中になった。昆虫や花、はじめて出来た友達…清は作品を作ることによって、自分の好きな世界を貼絵に閉じ込めた。そんな清の作品が、思わぬ展開を生んでいく。昭和14年、銀座の画廊で学園の作品展が開かれると、清の作品が、大きな注目を浴びる。新聞各紙は清の作品をこぞって取り上げ、絶賛した。
昭和15年11月、清は突然、風呂敷包み一つ持って、学園を脱走した。
「僕は八幡学園に6年半位いるので 学園があきて
ほかの仕事をやろうと思って 此処から逃げて行こうかと思っているので へたに逃げると学園の先生につかまってしまうので 上手に逃げようと思っていました・・・」
戦後、清は再び放浪の旅へと出掛ける。しかしその旅は、トラブルの連続だった。時には不審者と間違われ、また時には、綺麗な海の風景に魅せられ、思わず飛び込み溺れ死にしそうになったり。しかし、それまで逃亡のためだった清の旅が、次第に、旅そのものが目的へとなっていった。名所旧跡や観光地ではなく、旅の中で偶然出会った、自分だけの美しい風景を心行くまでぼーっと眺める。清はそんな時間を楽しんでいた。
昭和24年、8月。清は新潟県・長岡の信濃川にいた。戦後、長岡の花火は街の復興を願うと共に、戦災で亡くなった人々の慰霊祭として上げられていた。その日本一の花火の光景に魅せられ、「長岡の花火」という作品を描いた。放浪の末、ようやく“いい所”を見つけた清。しかし、その運命は再び時代の波に翻弄される。
清にとって、放浪が出来なくなった事が何より辛かった。まさに籠の中の鳥だった清。そんな中、一つの作品に取り組む。清の脳裏に片時も離れず残っていた、あの花火の光景だった。日本一と言われた長岡の花火。清にとって特別な存在だった。はじめて長岡の花火を見てからおよそ20年。夜空に上がる花火は、以前よりも鮮やかに、そして力強く描かれていた。そこには清が何より求めていた美しい風景、そして、安らげる最高のユートピアがあった。
映画にもテレビにもなっている人だったので、先入観を持っていたけど、
今回、作品にふれ、人物を知って、山下清のインテリジェンスに圧倒された。
それに、ものすごくピュア。
人も、自然も、生き物も、同列に見る彼のまなざしは見習うべきものだと感心した。