#32 2012年11月5日放送
今週のテーマ:「龍馬が愛した京都」
平安京の誕生以来、日本の中心として長きに亘って栄えた京都。政治の中心が江戸に移ると京の町は大きく変わったといいます。時代の流れと共に変わりゆく京都で、庶民や公家の生活はどうなったのでしょうか?日本という国を変えようとした坂本龍馬。彼がこの町で見たものとは?そして何故、殺させなければならなかったのか?今回は龍馬が愛した京都の謎に迫ります。
江戸時代、茶道や和歌などの大和文化を受け継いでいたのは、公家たち。彼らは、文化の伝承者として「家元」となり、裕福な庶民に教えることで、収入を得ていました。とは言っても、家元として生計を立てられたのは、ほんの一部の公家のみ。当時、こんな川柳が詠まれています。「大内の 細工の末は 謌かるた」宮中で公家が行う末端の仕事は「かるた作り」という意味。家元になれない下級の公家は、百人一首のカルタなどの文字書きの内職をしていたというのです。公家たちの暮らしの変化によって、庶民へと伝えられた大和文化。江戸文化は、大衆が生み出したものですが、その根底には、公家の影響があったのです。
「寺田屋」
京都の南、伏見は 豊臣秀吉が城を築いた町。京都、大阪間を結ぶ水運の拠点として栄えました。龍馬も、この水運をたびたび利用し京都へ向かったとか。かつて川沿いにあった多くの船宿のひとつを定宿としていました。それが「寺田屋」です。恋人 お龍と出会った場所でもあり、龍馬が気を休める場所の一つでした。鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが、現在は再建され京都の観光スポットとして賑わっています。
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