#27 2012年10月1日放送
今週のテーマ:「奥の細道~芭蕉の暗示」
江戸時代、俳聖と謳われた松尾芭蕉。
「奥の細道」の旅に出て、数多くの有名な俳句を生み出しました。その道のりおよそ2400㎞。何故、芭蕉は旅に出なければならなかったのか?俳句に隠された芭蕉のメッセージと「奥の細道」真の目的とは?今回は芭蕉の暗示を解き明かします!
『奥の細道』の書名の由来となった「おくのほそ道」は仙台藩領内にあった名所・旧跡の1つで、仙台を拠点していた俳諧師、大淀三千風(おおよど・みちかぜ)が名付けたといわれています。大淀は「松島」の景観を全国に広める努力にも力を注ぎ、芭蕉が旅立つ7年前の天和2年(1682)に撰集『松島眺望集』を発表。芭蕉が「奥の細道」の旅に出るきっかけになったのもこの本の影響といわれています。紀行文としても評価の高い『奥の細道』ですが、同行した曽良の旅日記と比べると食い違う点が多く、虚構性が指摘されています。日付だけでなく地名や門人の名前まで意図的に変えていることから、芭蕉が「奥の細道」を日記や記録の類としてではなく、文学作品として捉えていたことがわかります。あくまで一人の俳諧師として生きた芭蕉は、この作品を出版しようとは思っていなかったらしく、門人の向井去来が所蔵していた清書本を元に芭蕉死後の元禄15年(1702)に京都の井筒屋から刊行され世に広まりました。
『奥の細道』の旅の途中、芭蕉が山形・尾花沢で食べた「奈良荼飯」は、もともと東大寺・興福寺が発祥といわれる奈良の郷土料理でした。明暦の大火(1657)の後、江戸・金龍山浅草寺の門前の荼屋で売り出されたのを機に、たちまち庶民の間に広まりました。その素朴な味わいを芭蕉は大変気に入っていたとされ、門人達に『なら荼三石喰ふて後はじめて俳諧の意味を知るべし』と語ったといわれています。
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