#48 「元禄俳諧」 2013年9月4日放送

#48 「井原西鶴 VS 松尾芭蕉」

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ルネサンス。芸術や文化が新たに誕生する奇跡の時代。実は日本にもルネサンスが起きていた。時は、元禄。長い戦国時代で疲弊し荒廃しきった日本の文化に再び花を咲かせたのは3人の天才文学者だった。元禄の文化は、井原西鶴が始め、松尾芭蕉が補い、近松門左衛門が完成させたと言われている。中でも、芭蕉と西鶴の2人が、ライバル関係にあったことは、意外と知られていない。彼らの戦いは、日本の文学を根幹から変えた。今宵、元禄に花開く、2人の天才の筆の戦いの幕が開ける。

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人気俳諧師西鶴!しかし芭蕉は・・・

西鶴は15歳で俳諧を始めると、めきめきと頭角を現し、21歳の時には一人前の俳諧師となる。自由で、おかしみのある西鶴の俳諧は保守的な俳諧にうんざりしていた町人たちからもてはやされた。大坂で花開いた新しい俳諧。その中心で活躍していたのが西鶴だった。一方芭蕉は10代のころに藤堂家に奉公に出される。芭蕉が仕えた藤堂家の嫡男・良忠は、学業を重んじており、特に俳諧に熱心だった。2歳年上の良忠と意気投合するが良忠がわずか25歳で病死してしまう。大切な主人を亡くした芭蕉は、藤堂家を離れる決意をする。芭蕉は京京にのぼるが京にも大坂にも、新人俳諧師の食い込む余地はなかった。そこで31歳の芭蕉は、江戸に向かったのだ。

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西鶴の才覚!?芭蕉江戸で活躍しだした矢先・・・

順風満帆だった西鶴の人生にも陰りがでていた。なんと最愛の妻がまだ25歳の若さで死去。哀しみの中で、西鶴は妻への思いを一日で千句読んだ。その後、西鶴は髪を剃り、商売もやめて隠居。そして、狂ったように俳諧に没頭していく。当時大勢で大量の俳諧を読む万句興業というものがあったが、西鶴は一日に一人で何句作れるかという矢数俳諧をはじめたのだ。延宝5年5月、西鶴は一日に1600句を詠み上げた。会場となった寺には、西鶴一人を見るために、数百人の観客が詰め寄せたという。鶴が起こした波は、江戸まで届いていた。江戸にいた芭蕉は多くの弟子を抱え、俳諧師としても順調な生活をしていた。しかし突然、日本橋を去って、深川に隠棲。原因は内縁の妻の女性が 師匠の甥っ子と駆け落ちしてしまったとかなんとか・・・あわてた弟子たちは一丸となって師の生活を支援した。そして芭蕉は、暗闇の中で一筋の光を見いだす。それは、禅との出会いであった。近所の寺で学んだ禅から、質素と静寂の中に美を見出す「わび」の道に目覚めていく・・・。

西鶴・芭蕉の新境地

大坂を震撼させる出来事があった。西鶴があの浮世草紙「好色一代男」を出版したのだ。た。それまでの小説は、「仮名草子」と呼ばれる教訓的な読み物だった。しかし、「好色一代男」は、女好きな主人公・世之介がいろいろな女性と関係を持った末、女性ばかりいる島を目指して旅立つという何の教訓もない話。西鶴の小説は、「浮世草子」とよばれ、新たなジャンルを確立し全国的なベストセラーとなった。
一方芭蕉もあらたなる新境地を見出した。それが旅だった。一カ所に留まらず、動き続けることで、時代の空気をとらえようとしたのである。勢力的に旅に出るようになった芭蕉は、45歳「奥のほそ道」の旅路で求め続けてきた答えをみつける。理論や技術を捨て、飾らない言葉で鮮烈に風景を切り取る「軽み」。芭蕉が求めた芸術としての俳諧の極意であった。

高橋英樹の軍配は…

僕は書が好きで結構自分で書を書いたりするんですけど、芭蕉の句は不思議とすぐ書きたくなる。字として色紙や半紙に表現するのに、とても書きたくなるし、書く字によって同じ言葉が全然違って表現されるんですよ。今回はわたしの個人的な趣味を含めて・・・松尾芭蕉!