#45 「天草・島原一揆」 2013年8月14日放送

#45 「天草四郎 VS 徳川家光」

画像

寛永14年、この年はときの将軍・徳川家光にとって特別な年でした。
なかなか世継ぎに恵まれなかった家光に初めての子供「千代姫」が誕生。さらに江戸城本丸が改築された年でもあり、家光は乗りにのっていた時期だったのです。しかし事件は起きました。歴史的にも有名な天草・島原の一揆です。この一揆の大将はわずか16歳の天草四郎でありました。いったいなぜ、16歳の少年が誕生したのでしょうか。そしてたかが一揆にもかかわらず、この事件は日本中を巻き込んでいくのです。家光はなぜこの一揆に全力を出したのでしょうか。そこにはある秘密が隠されていたのです。
今回は天草四郎対徳川家光の対決を見てまいりましょう。

画像

天草四郎の誕生

天草四郎が誕生した背景は極めて過酷な事情がありました。島原、天草はキリシタン大名がおさめる地でキリスト教が日本でも最も盛んな場所でした。しかし徳川の世、キリシタン大名は改易にされ、新たな藩主のもとで信仰も厳しく取り締まられるようになったのです。さらに領民たちは重い年貢にも苦しめられておりました。誰もが苦しめられていたその時ある噂が流れたのです。その噂とは、今から25年後に16歳の少年が人々を救うという内容でした。そしてその噂にぴたりと当てはまったのが益田四郎時貞、後の天草四郎だったのです。

画像

一揆勢は予想以上に強かった

農民一揆が起きたとき江戸にいた家光はなんとも思っていなかったかもしれません。たかが一揆。簡単に鎮圧できるだろうと三河国の板倉重昌を幕府軍大将として送ります。さらに3万7千人の一揆勢に10万人の幕府軍を送りこみます。しかし家光の耳に飛び込んできたのはまさかの板倉重昌の討ち死にでした。なぜ一揆勢は強かったのでしょうか。それには秘密があったのです。天草・島原はキリシタン小西行長の遺臣が多くいたため、ただの農民ではなく関が原の合戦を経験した優秀な浪人が集まっていた土地だったのです。そのため、天草・島原で起きた一揆はとても計画的だったのです。城を襲った際に武器庫から武器を集め、さらに戦経験のない人々を統括しそして死をおそれず戦いに挑むことができるように「奇跡」を利用する形で特殊な衣装をみにまとい、神々しい姿の四郎を戦いのシンボルとして祭り上げたのです。四郎がいれば奇跡がおこると信じ人々は団結していったのです。

乱のあと・・・

幕府側には、このような記録が残されています。「一揆勢の首を集めて数えたところ、1万を超えた。焼け死んだものも、5・6千人はいるもよう」両軍ともに多くの死傷者を出した島原の乱でしたが、総大将天草四郎の最期は正確には分かっていません。そしてこの乱の後世界でも類をみない鎖国が始まり、江戸幕藩体制を家光は完成し、江戸幕府260年の基盤は島原の乱によって作られたのです。

高橋英樹の軍配は…

聞けば聞くほど、天草四郎という人物は、色々なものが組み合わさった「偶像的な存在」で実像感がない。そういう意味では家光というのは、かたくなにそこに存在し、江戸幕府を確立した人物として「実像感」がある。偶像が勝つか実像が勝つか、と考えた場合、この天草四郎の偶像は、徳川の実像群が創り上げたと思うのです。というわけで・・・徳川家光!