#43 「歌舞伎大名跡」 2013年7月31日放送

#43 「市川団十郎 VS 尾上菊五郎」

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江戸時代から庶民に親しまれてきた歌舞伎。その象徴とも言える歌舞伎座ができたのは、意外にも明治も半ばになってからのこと。そして、歌舞伎座誕生の陰には歌舞伎の地位向上をめざし、その未来を切り開いた二人の名優の熾烈な争いがあった。ふたりはいかにしてライバルとなったのか!大衆の娯楽にすぎなかった歌舞伎を芸術の域にまで高め後に「劇聖」とまで呼ばれた9代目市川團十郎。対するはそして、歌舞伎のエンターテインメント性にとことんこだわり、團十郎をもしのぐ人気を誇ったという5代目尾上菊五郎。今回は 歌舞伎誕生とふたりのライバル対決を見てまいりましょう。

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襲名するはずではなかった二人の運命

市川團十郎と尾上菊五郎だが、実はその9代目と5代目は本来その名を継ぐべき存在ではなかったという。後の9代目團十郎は7代目市川團十郎の5男として生まれたが、8代目團十郎の座はすでに長兄が継いでいたため生後7日で座元の河原崎家に養子に出され、河原崎権十郎として舞台に出演していた。同じく座元の市村家に生まれた後の5代目菊五郎は、嘉永4年、13代目市村羽左衛門を襲名した。将来歌舞伎界の頂点に立つとは本人はおろか誰も思っていなかった若き日のふたりの役者。しかしふたりの運命が幕末の江戸で大きく動き出す。なんと8代目團十郎が子を持たぬうちに若くして自死。さらに権十郎は市川宗家の役者だけが演ずることを許される「歌舞伎十八番」の一つ『助六』を演じ、一躍9代目團十郎候補となった。一方羽左衛門にも思わぬ転機が巡ってくる。4代目尾上菊五郎が男子を設けぬうちに死去。さらに19歳だった羽左衛門は、『弁天小僧』を演じ大ブレイク、一躍菊五郎候補となった。そして明治元年、羽左衛門が5代目尾上菊五郎を襲名。明治7年には、権十郎が9代目市川團十郎を襲名した。新時代の到来と共に継承されたふたつの名跡を背負うこととなった二人が、このあと歌舞伎界に変革をもたらすこととなる。

「活歴物」VS「散切物」

明治に入り、東京府庁から歌舞伎を西洋のオペラなどにも匹敵する日本独自の演劇文化として国際社会にアピールしたいという上からの圧力があった。これに対し團十郎は、活歴物という新たな歌舞伎のジャンルを生み出した。活歴物とは、すなわち活きた歴史。過剰な演出を避け、時代考証に基づいた写実的な表現を目指したのだ。一方、菊五郎のやり方は團十郎とはまったく違っていた。菊五郎が演じた『人間万事金世中』。これはなんとイギリス人作家ブルワーリットンの小説『マネー』を、日本を舞台に改作したものだった。明治の新風俗を盛り込んだ菊五郎の舞台は、まげを切り落とした髪型にちなんで「散切物」と呼ばれ、江戸っ子たちから喝采を浴びた。ふたりの当代きっての人気役者は、異なるアプローチで新時代の歌舞伎を切り開こうとしたのだ。しかし事件は起きる。歌舞伎十八番の一つ『勧進帳』の配役を巡って歴史的事実にこだわる團十郎に、菊五郎たちは振り回されていた。その結果、菊五郎は、團十郎と同じ劇場には出演しなくなったのだ。

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芸の継承

円熟期を迎え名実ともに歌舞伎界の頂点に立った團十郎には、ひとつ気がかりなことがあった。自らの芸の継承である。娘は二人いた團十郎だったが、芸を継がせるべき息子は、生まれてすぐに亡くなっていた。これまで培ってきた芸を広く次世代に伝えていきたい。團十郎にはこのとき、その芸を継承してみたいと思わせるものがいた。なんとライバル菊五郎の息子、丑之助であった。菊五郎はそれを受け入れ團十郎が、ライバル菊五郎の息子の芸の師匠となったのだ。二人は歌舞伎界に革新をもたらし、そして最高の置き土産として菊五郎の血が流れ團十郎の芸を引き継いだ丑之助、後の六代目尾上菊五郎を残したのだ。

高橋英樹の軍配は…

劇聖と言われる方と名優の対決を我々ヘボ役者が言うのはおこがましくて・・・・・・・・・。
うううーーーーん・・・・・・・・・・・・九代目市川團十郎!やはり「劇聖」という名前を付けている人は、古今東西この方しかいらっしゃらない。わたしは「劇」を志す者ですから「劇聖」という名にものすごく憧れと尊敬の念を持っています。そういう意味で今回は、九代目團十郎に軍配を上げたいと思います。(師匠の)尾上松緑先生、すみません!怒らないでください!