#37 「蒙古襲来」 2013年6月19日放送

#37「北条時宗 VS フビライ・ハン」

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蒙古襲来

今からおよそ740年前、北条時宗が執権を担う鎌倉時代。九州、博多の町は炎に包まれた。モンゴル帝国の皇帝フビライハンの軍勢に襲われたのである。新兵器を繰り出し、圧倒的な兵力の前にたちまち敗走する日本軍。時宗の脳裏に日本の滅亡がよぎったその時、暴風雨が蒙古軍の船を襲い1万人以上が溺死。文永の役と言われるこの戦いは時宗で勝利で終わった。しかし、フビライの日本侵攻の野望が潰えることはなかった。平成10年に開校した福岡市立博多小学校。その建設の最中、校庭の一角から蒙古軍の再襲来に備え時宗が建造したものが発見された。それは地下6メートルにあった。これは石築地と言われる土塁で、蒙古軍の上陸を阻止するためのもの。高さ2.6メートル。幅3メートル。時宗はこの石築地を博多湾沿岸20キロに建造し敵の再来に備えたのである。文永の役から七年後。その予測が当たった。フビライハンが威信をかけた戦いを仕掛けてきたのである。
時宗は全国の神社に敵国降伏の加持祈祷を命じる。そして祈りが通じたのか、またしても暴風雨が蒙古軍の船を襲い10万の兵が海の藻屑となり日本は勝利。二度に渡り蒙古軍を追い払った暴風雨は『神風』と呼ばれるようになり、神国日本の象徴となったのである。
ところが近年、多くの学者が神風による蒙古軍の撤退を否定。特に一度目の文永の役に関しては、初めからフビライの作戦による撤退行動だったと言うのである。何故、神風で日本が勝利したという神話が生まれたのか?2011年長崎県鷹島(たかしま)冲で驚くべきものが見つかった蒙古軍の船だと言う。果たしてこれは本物なのか?そして今日明らかになる蒙古軍敗北の原因は?

モンゴル帝国の侵攻

鎌倉幕府を開いた源頼朝。その直系が3代で滅んだ後、執権として幕府を動かしたのが北条一族である。その八代目の執権となる北条時宗は1251年、名執権と呼ばれた父、時頼の次男として生まれた。その頃、中央アジアに大帝国を築いた民族がいた。モンゴルの遊牧民である。その長チンギスカンは、騎馬軍団を率い中国北部からカスピ海沿岸までを支配するモンゴル帝国を建国。その孫として帝国を受け継いだのがフビライハンである。フビライは朝鮮半島の高麗を支配下に置くと元を建国。さらに中国を統一すべく南宋に侵攻する。しかし、150年中国を支配してきた南宋の抵抗は激しく戦いは膠着。戦況の打開を図るフビライは、南宋に金を輸出し戦費を支えている日本の存在に目をつける。そして、1268年、日本と南宋の関係を断ち切るため時宗の元に国書を送る。これを読んだ18歳の北条時宗は、あまりにも無礼な内容に戦を辞さずという覚悟を決め返書を出さずに無視これに対しフビライは、意外な行動になる。翌年3月、対馬に人を送り塔二郎と弥二郎という二人の島民を拉致したのである。そして半年後――元の国の首都は大都、今の北京にあった。町を囲む城壁は周囲30キロに及び、各国から商品が溢れ西洋人の姿も見られた世界最大の都市であった。フビライは塔二郎たちの口から都の壮大さが時宗に伝わり、刃向うことの愚かさを知らしめようとしたのである。その一方で敵には容赦なく、高麗との戦いでは、捕虜だけで20万6千人。殺害された者はさらに多く国土は灰燼に帰したと言われた。この恐ろしさが中国から逃げて来た僧侶や商人たちによって京に伝わると公家たちの中には国書を無視したことを後悔する者が現れる。時輔とは、時宗の兄で朝廷を監視する六波羅探題の長官の一人である。兄でありながら側室の子であったため執権になれず不満を持っていた。そこで反時宗派の公家たちと計らい朝廷を味方につけ執権の座を奪おうと企てたのである。ところがこの企みを知った時宗は、兄を討ち取ってしまう。以後、時宗は、後顧の憂いなくフビライとの戦いに専念出来るようになる。一方、フビライも高麗に船の建造を命じ渡航の準備を進めていた。そしてこの時、傍で成り行きを見守る一人のイタリア人がいた。それはマルコポーロであった。

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蒙古最大の戦力とは?

文永の役の半年後、フビライの国書を持った使者が日本に来る。その内容はまたしても日本に隷属を求めるものであった。これに対し、時宗は使者の首を刎ね屈服の意志がないことを示し蒙古軍の再来に向けた準備を始める。まず、時宗が行ったのは、文永の役の論功行賞である。というのも当時、鎌倉には軍功に対する恩賞を求め直訴に来る御家人が数多くいたのである。蒙古襲来の第一級資料と言われる『蒙古襲来絵詞』。実は、これも文永の役で先駆けの手柄を立てた竹崎(たけざき)季(すえ)長(なが)という御家人が幕府に直訴し、肥後国に土地と馬一頭を与えられた出来事を描いたものである。次に時宗は、九州の御家人に命じ高さ2.6メートル、幅3メートルの防塁を博多湾沿岸20キロに渡り建造。
そこに異国警固番役という守備隊を常駐させる。こうして時宗が蒙古襲来の備えを整えている頃、フビライにも大きな変化があった。1279年、宿願であった南宋を滅ぼしたのである。ところが、南宋を手にしたにも係わらずフビライの日本遠征の野望がついえることはなかったのである。こうして1281年、フビライは南宋の兵を中心にした江南軍10万と高麗の兵を中心にした東路軍4万による遠征軍を編成。6月15日。壱岐で合流し日本へ侵攻するよう命じた。ところが、先に着いた東路軍が功を焦り勝手に博多湾へ侵攻。上陸した東路軍の兵が目にしたのは、真新しい防塁の上で弓矢を揃えて待ちかまえる日本兵の姿だった。上陸に失敗した東路軍に日本軍は、小舟による夜襲の追い討ちをかけ大きな損害を与えた。7月27日。到着した江南軍に合流した東路軍と日本軍の間で戦いの火ぶたが切られた。奮闘する日本軍。しかし、4千隻という大軍団の前に適うはずもなく、日本軍の敗北が目の前に迫った7月30日の夜、博多の町を暴風雨が襲う。それは中心気圧950ヘクトパスカル。最大瞬間風速55.6メートルという巨大台風であった。20時間にわたって風速30メートルの強風にさらされ続けた蒙古軍の船は次々に難破。高麗の記録によれば死者の数は、江南軍10万人。東路軍7千余人。台風が去った後、博多湾沿岸から蒙古軍の姿は消えていたという。果たして今度は本当に神風が吹いたのか?平成23年、琉球大学の池田栄史教授が長崎県鷹島冲の海底20メートルで沈没船を発見。調査の結果、弘安の役で沈んだ元の船であることが判明。現在、詳細な調査が行われ新たな事実の発見が期待されている。さて、後に神風と呼ばれる台風によって奇蹟的に救われた日本。しかし、蒙古軍が敗れた裏には、もう一つ渡航遠征のため最大の武器を持って来られなかったことにあるとも言われている。それは馬だった。

大航海時代の幕開け

弘安の役から3年後の1284年、北条時宗は34歳の若さで亡くなった。それは蒙古との戦いに力を使い果たしたかのような突然の死であった。 一方、フビライは日本攻略を諦めず3度目の遠征を計画。しかし、江南軍やベトナムの反乱に手をとられ実現することなく1294年79歳で亡くなった。この二人の戦いをフビライの傍で見守っていた西洋人こそマルコ・ポーロである。ヨーロッパに戻り出版された『東方見聞録』で紹介された黄金の国ジパングは、ヨーロッパ人を虜にし、やがてコロンブスやバスコ・ダ・ガマが活躍する大航海時代の幕開けをもたらす。こうして極東の一角でおこった戦争が世界の歴史の歯車を動かしたのである。

高橋英樹の軍配は…

難しいですねぇ〜。でも自分が演じてみたい、と思うのはフビライ・ハンですね。時宗は今でもすぐに演じられる、日本人の典型です。フビライは、得体が知れない!何を考えどうしていたのか、わからない。ある種の世界観というのは日本人が最も不得意とするところなので、今回は・・・フビライ・ハン!