#35 「浮世絵風景画」 2013年6月5日放送

#35「葛飾北斎 VS  歌川広重」

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世界を変えた二大絵師対決

日本人の心を魅了してやまない富士山。今からおよそ200年前の江戸時代、この富士を描いた一枚の絵が世界を驚かせた。「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。日本を代表する浮世絵風景画の傑作。作者は葛飾北斎。自らを「画狂老人」と称した天才が齢七十二にして世に送り出した意欲作だった。様々な富士の姿を描いた「富嶽三十六景」シリーズはそれまで美人画や役者絵が中心だった浮世絵の世界に「風景画」という新たなジャンルを切り開き、人々を熱狂させたのである。だが、そのわずか2年後、北斎の前に一人の男が立ちはだかる。男の名は歌川広重。広重が描いたのは「東海道五十三次」。五街道の一つ、東海道にある五十三の宿場を描いたこのシリーズは、北斎を超える空前の大ヒットとなった。
二人のライバルが生まれた背景には、飢饉や災害により危機に陥った幕府を立て直すために実行された、ある改革の存在があった。その改革とは!?さらに二人の対決は江戸庶民を熱狂させたにとどまらない。彼らの浮世絵こそが海を渡り、世界に影響を与えたのである。それはいったい何だったのか?世界を変えた二大絵師対決。

寛政の改革

世界一有名な日本の画家とされる葛飾北斎。その代表作、富嶽三十六景シリーズ「神奈川沖波裏」を見たフランスの作曲家ドビュッシーは、交響曲『海』を作曲した。世界にそこまでのインパクトを与えた北斎とはどんな人物だったのか?北斎が生まれたのは宝暦10年。その37年後、4歳の頃から幕府御用鏡師である養父のもとで育ったとされている。奇しくもこの頃は木版技術の改良により、浮世絵は色を重ね摺りできる多色摺りになる。それを絵師・鈴木晴信が「錦絵」として発展さると、裕福な趣味人たちの人気を集めた。北斎は19歳で浮世絵師、勝川春章に弟子入り。勝川春朗という名前で絵師としての活動を始めた。浮世絵の成熟期にデビューした北斎は、その才能を早くから認められ、やがて役者絵や黄表紙の挿絵などを描きその名を広めていくことになる。時は田沼意次の時代でもあり、江戸では歌舞伎、大相撲、出版など都市文化が華やいだ時期だった。ところが、天明の飢饉、浅間山の噴火により一揆や打ちこわしが続発。幕府は危機に陥る。さらに商業主義の政策が批判を浴び、田沼が失脚。田沼に反感を抱いていた松平定信による緊縮財政をめざした「寛政の改革」が始まる。これにより寛政2年には出版取締令が発令。山東京伝の洒落本が絶版となり、大手の版元、蔦屋重三郎は、財産を一部没収されてしまう。この頃、北斎にも不幸が訪れる。師匠、勝川春章が亡くなったのだ。そしてさらに北斎は勝川派を破門されてしまう。だが・。勝川派からの破門後、北斎は独自の世界を歩んでいく。「宗理」と名乗り「狂歌絵本」の挿絵をはじめ、「宗理様式」を確立し瓜実顔、富士額の「宗理美人」を生んだ。ところが、北斎にも寛政の改革の余波が押し寄せていた。北斎が挿絵を担当した「狂歌絵本」が豪華な色摺により絶版になったと伝えられている。だが・・・。そして描かれたのが賀奈川沖本もくの図である。当時、日本には銅版画が伝えられ、西洋風の絵が求められていた。北斎は西洋の陰影法を多用し、荒ぶる波を表現。「神奈川沖浪裏」に通じる一枚を誕生させたのだ!さらに、北斎はあるものにこだわりを見せていく。北斎は生涯にわたり「波」を描いていくことになる。そして「賀奈川沖本もくの図」からおよそ30年後の天保2年、満を持して発表したのが「富嶽三十六景」シリーズである。北斎の傑作にして、浮世絵風景画の代表作である。「日本的な絵」となり、北斎の人気はまさに絶頂を迎えた。ところが・・・。その2年後の天保4年、別の絵師が「東海道」をテーマに新たな「風景画」を発表。北斎を上回る爆発的なヒットとなった!絵師の名は歌川広重。それは北斎が自ら開拓した新境地に現れた、もう一人の若き天才だった。

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売れ行き

「東海道五三次」を描き、北斎の前にあらわれた歌川広重とは、いったいどういう人物だったのか?広重は寛政9年、幕府御家人の火消し同心、安藤家に生まれる。だが、10代で不幸が襲う。広重、13歳で両親が死去。両親の死後、広重は収入を補うため、浮世絵師の道に進む。師事したのは歌川豊国の弟弟子、歌川豊広だった。これがのちに「風景画」を描く、広重の転機となる。歌川豊広は比較的おとなしい作品を手掛けていたため、師匠ゆずりの派手さのない広重の作品は世間の注目を集めることはなかった。だが、そんな中でも広重は歌川派にこだわらず、独学で浮世絵を学び始める。これは、円山応挙の影響を受け写生を重視して描いた広重の作品。のちに広重は自身の画法についてこう書き残している。それは、不遇時代を過ごす広重が自ら学んだ「新境地」だった。文政後期、30歳頃の広重はすでに「風景画」を描き残している。円山応挙の絵との出会いが、広重の原点となった。天保2年、満を持して広重が描いたのが「東都名所」だった。だが、売れ行きは悪かった。なぜなら、同時期に、ある風景画が発売されたからだ。その風景画とは果たして?

江戸時代の旅行ブーム

広重が描いた「東都名所」と同じ年に発表されたのは、北斎の「富嶽三十六景」シリーズである。その大胆な筆致は、たちまち江戸っ子たちを魅了。すっかり広重の浮世絵はその陰に隠れたてしまったのだ。「これまでに見たことのない富士だ」広重は「富嶽三十六景」を見て驚きを隠せなかった。
30代の自分よりも、齢72の老人の方が斬新で革命的であったからだ。北斎に衝撃を受けてから2年後の天保4年、広重の元にチャンスが訪れる。版元「保永堂」から東海道をテーマにした浮世絵を依頼されたのだ。この時、広重は53の宿場を歩いたとされている。
「この目で見た光景を写しとるんだ」そして広重に追い風が吹く。それは旅行ブーム。「富士信仰というのがあって富士山というのは信仰の対象で人々が実際に富士山に江戸時代に登っていたこともあって、浮世絵の中に名所絵というジャンルが確立していくような雰囲気づくりというのがあったと思うんですね」広重の「東海道五十三次」は、江戸っ子の旅情をかきたて、大ヒットとなった。形成は一気に逆転、北斎が切り開いた「風景画」というジャンルは、広重の独壇場となったのである。

どちらが真の勝者か?

「風景画」というジャンルを確立した北斎と広重。真の勝者を決めるものとは?広重の東海道五十三次のヒットをまのあたりにした北斎は「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」などの風景画シリーズをに発表。しかし、広重人気が増していた。さらに二人は「風景画」だけでなく「花鳥画」でも対決。北斎は、風に向かって食らいつくようなケシの花の絵を見てもわかるように、造形的で乾いた世界。一方、広重の作品「月に雁」は抒情的で、感傷的だ。秋の情景を鳥や月を巧みに組み合わせて画面を構成した。市場に多く出たのは圧倒的に広重の方だった。当時の浮世絵は芸術ではなくあくまでうれてナンボ、この対決も広重の方に軍配は上がったのである。結果、北斎は自らが開拓した風景画の版画をやめることになり、肉筆画を中心に描き始める。北斎と広重。どちらが真の勝者なのか?その答えは意外なことに広重が衝撃を受けたあの絵にあった。「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」である。北斎は生涯にわたり波にこだわりをみせた。対する広重は、写実を基本とし、オリジナルを生み出した。北斎とほぼ同じ場所から対照的な穏やかな波を描いた。しかし、広重は本当に満足していたのか?いや、そんなことはない。実は広重が北斎の死後、発表した作品がある。それは、「冨士三十六景 駿河薩タ之海上」描かれたのは荒い波。広重は本当は北斎のような激しい波を描きたかったのかもしれない。静かな波で抒情的な絵を描き、人気絵師として活躍した広重。だが、広重の心には何よりも先達である北斎の波が必要だったのかもしれない。北斎と広重、どちらが真の勝者なのか?それは富士のみが知っている。

世界の画家が影響された

北斎と広重の風景画対決からから20年が過ぎた 嘉永6年、ペリー率いる黒船が来航。北斎と広重は西洋の印象派に影響をあたえることになる。そのファーストインパクトが北斎だった。開国後、海外には日本の陶磁器が数多く流出。陶磁器を収集していたフランスの画家、ブラックモンは衝撃を受ける。その包み紙こそが「北斎漫画」だったと伝えられている。その後、ゴッホやモネは、北斎・広重に出会うと、その構図や、描かれている風景そのものも、西洋の画家たちに影響を与えることになっていく。2人のライバル関係は印象派革命の引き金となっていたのだ。 嘉永2年、北斎は90年の生涯を閉じ、その9年後、広重も62年の生涯を閉じた。2人のライバル関係は、江戸時代に実行された2つの改革、享保の改革と寛政の改革の弾圧がなければ生まれなかっただろう。そして印象派革命も起きなかったかもしれない。

高橋英樹の軍配は…

んんー、ムズカシイ!けれど、なんといっても、広重が出てきたのも北斎という存在があったからこそ、ですよね。
長嶋茂雄がいて松井秀喜がいる、みたいな。そう考えると歴史的に初めてこういう絵を作り上げた北斎に、すごいエネルギーやパワーを感じます。なので今回は・・・葛飾北斎!

高畑百合子

高畑百合子が見た“ライバル対決”

普段は何気なく感じている「これ日本っぽい!」これ「和風だね」という感覚は、まさにこの2人の作品によって作られていると思いました。
民衆の心に旅をさせた歌川広重と、日本の美を改めて印象づけた葛飾北斎。この2人が全身で感じ取った「日本」が発信され、それが今の私たちに脈々と受け継がれているんだなあと、作品という枠を超えて「日本の文化」を創った2人の残した功績の偉大さを感じました。