#33   「富国強兵」  2013年5月22日放送

#33「伊藤博文 VS 山県有朋」

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幕末最大の衝撃はペリーの黒船来航ではない。四カ国艦隊下関戦争である。
元治元年8月、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ軍による17隻の艦隊が288門の大砲によって砲撃! 攘夷の急先鋒、長州藩は、完膚無きまでに打ちのめされました。そこに二人の奇兵隊員がいたのです。一人はイギリスから急きょ帰国し、英国公使オールコックに攻撃の中止を交渉した伊藤博文。もう一人は軍艦として砲撃の最前線に立ち、九死に一生を得た山県有朋でした。2人は、この敗北の中から近代国家建設に最も大切なモノを学んできました。日本が一等国の仲間入りを果たすために明治政府が掲げた国家目標こそ、「富国強兵」です。伊藤博文は、憲法と内閣制度を生んだ初代総理大臣となり、山県有朋は日清日露戦争に勝利した陸軍の父となりました。近代国家の政治のあり方を巡り、激しく対立しながら、伊藤は富国を、山県は強兵を実現。共に日本の骨格を作り上げていきました。なぜ日本は文明国の仲間入りが出来たのか? それは、伊藤と山県なしには実現しなかった? 二人が明治という時代に果たした役割とは何だったのでしょうか。

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吉田松陰の教え

天保12年、利助、後の伊藤博文は、現在の山口県光市で貧農の長男として生まれました。しかし、父親が藩士の伊藤直右衛門の屋敷に奉公人として勤めたことによって運命が変わります。跡継ぎのいなかった直右衛門が、勤勉で利発な利助を気に入り、養子にしたからです。一方、天保9年、山県有朋は長州藩士山県有稔の長男として、現在の山口県萩市に生まれました。少年時代は、槍の名手として知られていました。
2人が初めて顔を合わせたのは、安政5年。長州藩が、京都に優秀な若者6人を派遣した時でした。この時選ばれたのが、伊藤と山県だったのです。伊藤はその時、すでに吉田松陰の松下村塾に双璧と言われた高杉晋作に深く傾倒していました。一方、山県は、もうひとりの双璧、久坂玄瑞の紹介で松下村塾の門下生となります。しかし、松陰の影響は大きいものでした。過激な攘夷運動に走った伊藤博文は、文久2年、御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを決行。さらに、国学者塙次郎が孝明天皇を廃帝にする方法を調べさせているという噂を聞いた伊藤は、塙を待ち伏せし、「国賊」と叫びながら斬殺します。そして、文久3年、長州藩による英国海軍視察メンバー、いわゆる長州5のひとりとしてイギリスへ密航。ヨーロッパの先進文明を目の当たりにして、攘夷の無謀さを思い知らされることとなります。ロンドンに到着してから半年後、伊藤は英紙「タイムズ」で長州藩に砲撃を受けた四か国連合艦隊が、報復を計画しているという記事を目にします。このままでは日本が滅びると思った伊藤は、急きょ帰国。英国公使ラザフォード・オールコックに交渉し、2週間の攻撃猶予をもらい、藩主に攘夷より開国だと必死に説きました。しかしその主張は退けられ、関門海峡に現れた17隻の四か国艦隊は、288門の大砲で雨あられの砲撃を開始。長州藩はこの敗北をきっかけに、攘夷から討幕へと舵を切ったのです。高杉晋作は、身分に関わらず、人材を集める奇兵隊を再編成。坂本龍馬の尽力によって、敵対していた薩摩藩と薩長同盟を結び、幕府との戦いに備えました。この時、薩摩との連絡役として京都に潜入したのが山県でした。そこで出会った西郷隆盛に、山県は終生変わらぬ尊敬の念を抱くことになります。
明治新政府になって、いよいよ伊藤の出番がやってきます。明治元年、イギリス留学経験があり、英語が話せ、英国公使パークスとも親しい伊藤は外国事務掛に任命されました。明治新政府の文民派の要となった伊藤。一方、武官として名を馳せた山県。二人が近代日本を築くトップランナーとして激しく火花を散らす日が間近に迫っていたのです。

二人が海外で学んだこと

明治4年、岩倉具視を正使とする岩倉使節団の副使として、伊藤博文は不平等条約の改正交渉と国家建設のモデルを欧米諸国に求め、アメリカへと旅立ちます。
一方、伊藤に先立つこと2年前、山県は、明治2年に欧米8カ国を視察、軍制を見聞し、特にフランスとドイツの徴兵制度を詳しく学んでいました。帰国後、山県は兵部省の実質的なトップとなり、陸・海軍省が設置され、徴兵制が実施されると西郷隆盛の後押しで初代の陸軍卿となります。35歳で名実共に陸軍の最高位に君臨したのです。西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らによる留守政府が、外遊組のいない隙をついて学制や徴兵制など大規模な改革や人事の刷新を断行。さらに、韓国との外交をめぐり征韓論を主張したのです。
1年9ヶ月ぶりに帰国した伊藤たちの立場はありませんでした。伊藤は征韓論に猛反発。陰謀を巡らし、征韓論を主張する西郷らを追い落とし、留守政府から実権を奪い返しました。下野して鹿児島に帰った西郷隆盛は、不平武士達のリーダーとなり、西南戦争を引き起こします。その平定に乗り出したのが山県だったのです。山県は自ら兵を率いて、西郷軍と戦わなければならなりませんでした。誰よりも尊敬する西郷自害の知らせを受けて、山県は涙を流し、その死を悼んだといいます。気がつけば、伊藤も山県も、明治政府を牽引するトップランナーとなっていました。彼らを新政府のニューリーダーに押し上げたのは、自ら欧米に出向き、先進文明を学んだ成果でした。

文明国の仲間入りを果たした二人

あくまで君主政治にこだわる山県。それに対し、伊藤は政党政治を目指す…。
明治15年、伊藤博文は憲法と議会政治を調査するために4度目の外遊に旅立ちました。そこで伊藤は、ウィーン大学のシュタイン教授から大きな啓示を受けることになります。それこそが君主機関説。天皇でさえ、1つの機関であると言うのです。翌年、帰国した伊藤は宮中と政府を切り離し、大臣ひとりひとりが責任を負う内閣制度を導入、自ら初代内閣総理大臣に就任しました。そして明治22年2月、伊藤が作り上げた大日本帝国憲法が発布され、日本は立憲国家として念願の文明国の仲間入りを果たしたのです。
一方、山県有朋は政党政治を嫌い、藩閥政治にこだわり続けていました。皮肉にも、その山県が内閣総理大臣に任命されて開かれたのが、政党勢力が過半数を占める第1回帝国議会でした。山県は、内閣を退いた後も選挙で政党派候補に露骨な邪魔をし、死者25名、負傷者388名を出す惨事を引き起こしました。
こうした選挙干渉に、伊藤は強く反発、自ら政党を組織することを考え始め山県と激しく対立しました。明治25年、第二次伊藤内閣の時、大事件が勃発します。朝鮮をめぐって緊張関係にあった日本と清国が戦争に突入したのです。この時、陸軍大将の山県有朋は、朝鮮遠征軍第1軍司令官に任命され、最前線で指揮を執りました。清国よりも早く技術革新を取り入れた日本は、日清戦争に勝利。しかし、ロシアがドイツとフランスを誘って、日本に割譲された遼東半島の返還を迫りました。世に言う三国干渉です。結果、日本は遼東半島を断念せざるを得なくなり、国民は無念の思いを噛みしめることになりました。それが、日露戦争へとつながる軍事力のさらなる強化へと向かうのです。
立憲政友会を率いて組閣した第4次伊藤内閣が退陣した後、伊藤は、朝鮮半島に支配の手を伸ばすロシアと自ら交渉。ロシアとの宥和策を進めました。しかし、山県はロシアではなくイギリスと手を結ぶことを主張。1902年、遂に日英同盟協約が結ばれました。そして武力衝突は避けられないと判断した日本が先制攻撃を仕掛け、ついにロシアとの戦いの幕が切って落とされたのです。山県は自ら参謀総長となり、戦争の総指揮官を務めました。しかし、山県は参謀総長として、ただ戦っていただけではありませんでした。「脱亜入欧」、日本が欧米基準の文明国として認められるために戦っていたのです。

吉田松陰、そして伊藤と山県の最期…

吉田松陰は安政の大獄で斬首され、裸のまま江戸伝馬町の処刑場にさらされました。伊藤は、木戸孝允らと共に裸の遺体を引き取り、着物を着せ埋葬しました。近代国家を作り上げた多くの人材を輩出しながら、あまりに報われない最期でした。それにひきかえ、弟子の二人の死はどうであったか…。
伊藤博文は、明治42年、黒竜江省のハルビン駅で銃弾に倒れました。伊藤の遺体は軍艦で日本まで運ばれ、日比谷公園で営まれた国葬で40万人もの弔問者が伊藤の死を悼みました。一方、大正11年、83歳で静かに息を引き取った山県有朋の葬儀もまた国葬でした。
しかしその後、なぜ伊藤と山県は多くを語られなかったのでしょうか。それは、道半ばにして逝った松陰や維新の志士たちに比べ、あまりにも栄光に満ちた人生だったからなのかもしれません。

高橋英樹の軍配は…

わたしは昭和19年生まれの戦中派でして、ドラマ「坂の上の雲」では児玉源太郎を演じて「行けー!」なんて指令を出していますけども、やっぱり「軍」というものに多少の嫌悪感というものがありまして…。そういう意味で見ると、文民政治家として大衆に主眼を置いた伊藤博文さんの方が、今回はちょっと勝ちかな? というわけで…伊藤博文! でも、実は「坂の上の雲」でも二百三高地の部分を撮影しましたが、撮影でさえ超過酷でしたから! あの戦闘を、寝る間もなく野営しながら何日も何か月も戦っていた明治の人たちの想いを考えると、あの現場に行っていた山県有朋という人物を見直しの意味も込めて演じてみたいですね。