#32   「家康の神号」  2013年5月14日放送

#31「南光坊天海 VS 金地院崇伝」

画像
画像

家康の天下に仕上げを入れたのはある2人の坊主だったといわれております。その坊主の名は金地院崇伝と南光坊天海。「こくい黒衣の宰相」と呼ばれた二人の僧侶。彼らが徳川幕府を盤石にするために果たした役割とは一体何だったのでしょうか。そして二人が戦った理由とは・・・。今回は戦国に生きた二人の坊主の戦いをみてまいりましょう。

徳川幕府完成を仕上げた崇伝・・・その時天海は!?

崇伝は37歳という若さで南禅寺の住職となった若きエリートでした。しかし家康が天下を手に治めるために武将ではなく、さまざまな分野のスペシャリスト集めていた際に崇伝が含まれていたのです。そして、崇伝は外交文書を担当しその力を高く評価され外交全般を統括していきます。
しかし崇伝のすごさはこれだけでは終わりません。当時、徳川家康は豊臣秀吉の子、豊臣秀頼の存在に業を煮やしていました。豊臣家から天下を奪うには秀頼を倒すことは必須・・・なにか手はないかと家康が考えていたとき崇伝が動き出します。京都東山の麓にある日秀頼が納めたほう方こうじ広寺の鐘に崇伝は日本史上最大の言いがかりつけたのです。
「この鐘の文字にご注目下され。『国家安康』には、大御所様の名を二つに切り裂き、呪う意味が。さらに、『君臣豊楽』からは、豊臣だけが栄えて楽しむとの解釈が可能!」そしてこれがきっかけに大阪の陣が勃発。家康は天下を得ることができたのです。しかしそのとき天海はただ黙ってみていたわけではありません。家康から息子秀忠へ権力の移行が進みつつあるのを見て取った天海は、軸足を家康から秀忠に移していきます。天海は相談相手として家康の心を捉えながら先んじて江戸にいる秀忠の側近らとも連携していたのです。
ここから天海の逆襲が始まります。

画像

直接対決!天海vs崇伝

方広寺の事件から2年後。駿府にいた家康は鯛の天ぷらを食べたのち、重い病を患います。それからほどなくして、自らの死を悟った家康は崇伝と天海を呼び、遺言を伝え75年の生涯に幕を下ろしました。しかしこの家康の死が天海と崇伝の運命を大きく分けるのです。
駿府城で死んだ家康のいがい遺骸は、遺言通り久能山に埋葬。そのとき、家康を神として祀る際に天海と崇伝の間で対立が起きます。論議の的となったのは「家康の神号」を何にすべきか・・・
崇伝が主張したのは…「明神」。日本独自の神々を尊重する吉田神道に従い、最高の神号をつけるべきというもの。それに対し、天海は…「権現にすべし」と反論。天海が唱えた「権現」とは、彼が立ち上げた独自の教義、山王一実神道に基づくもの。しかも、「権現にせよ」とは家康が自分にのみ語った遺言だといい始めたのです。
しかしこの論争はたった一言で勝負がつきます。「明神」は豊臣秀吉の神号、豊国大明神と同じであり、秀吉と同じ末路になると天海が反論。そのとき徳川家は天海が根回しした家臣たちの信頼もあり家康の神号は「権現」となったのです。

高橋英樹の軍配は…

わたしの気持ちとしては、天海さんというのは、日光東照宮を建立するなど業績が形として表れている。一方崇伝さんというのは、本当に一生懸命やってきた人なのに、歴史の中に埋没している人。東京タワーのそばの金地院というお寺の前を通りかかるたびに、昔あれだけ徳川に仕えていながら現代ではこのくらいの狭さになっちゃったのかと、わたし心が痛むんです。
なので今回は…金地院崇伝!

高畑百合子

高畑百合子が見た“ライバル対決”

自らの力が家康というフィルターを通して世間に影響を与えるという、こんなにスリリングなライバル対決はないと思います。このライバル対決が火花を散らしたからこそ、あのような家康の時代が作られたのかと思うと、壮大な歴史絵巻の中に人間くささを感じ、身近な事に思えました。
持てる限りの知恵をぶつけ合った2人のライバル対決が、まさに歴史を動かしたんですね!