#31   「明治 新時代の母」  2013年5月1日放送

新島八重 VS 大山捨松

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戊辰戦争・会津籠城戦で自ら銃を手に新政府軍と戦い幕末のジャンヌ・ダルクともいわれたハンサム・ウーマン「新島八重」。一方、日本初の海外女子留学生のひとりとしてアメリカに渡り、その後津田塾大学の前身、女子英学塾を津田梅子とともに設立し女子教育に貢献した大山捨松。まだ、男性が社会の中心だった頃に、女性として明治の新時代に最も活躍したこの二人。幼少の頃に意外な接点があったことが分かりました。今回はスタジオを飛び出し、高畑百合子アナウンサーが二人のふるさと会津若松と、活躍した京都を訪ね、その足跡を辿ります。

福島・会津若松

戊辰戦争の中でも過酷な戦いだったといわれる「会津・鶴ヶ城籠城戦」。ここで砲術指南役の家に生まれ育った女性八重は、男子にまじり、自ら銃を手に新政府軍との戦いに参加していました。もちろん、こんなことは前代未聞です。その際、髪を短くし、男子に変装して戦いに参加していたことが“幕末のジャンヌ・ダルク”とよばれる所以でした。実は、この鶴ヶ城に一緒に籠城していたのが、大山捨松。捨松はまだ子供で、直接戦いには参加していませんでしたが、明治の新時代、日本の女性の立場を著しく向上させた二人は、すでに同じ城内で新政府軍と共に対峙していたのです。次々と仲間が倒れていく中、修羅場と化した鶴ヶ城で、二人は命の尊さに男女はないことを知り、その後の封建的な日本のシステムを変えていく原動力としました。

その後のふたり

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八重の兄、山本覚馬が京都にいることがわかり、上洛する八重とその家族。そこで八重は日本初のキリスト教大学 同志社の創設を目指していた新島襄に見初められ結婚します。日本の古都では反対の強かったキリスト教の大学創立に奔走する襄を陰で支えていきました。
そのころの八重は、洋装をし、生活も肉食を中心とするなどの洋風の生活をしていました。未だ男社会だった京都で、レディーファーストを貫き、傍からは白い目で見られるのも気にせず、女子の社会進出を応援していきました。
一方、大山捨松は、陸軍卿大山巌の妻となり、当時日本と外国の重要な接点だった「鹿鳴館」で、留学時代に身につけた語学や洗練されたマナーを武器に、鹿鳴館の華と呼ばれるまでになります。そしてその立場を利用し、女子教育を進める津田梅子のサポートをすることになるのです。
明治の新時代を生み出した母のような存在の二人の数奇な人生に迫ります。