#15 「軍師対決」 2013年1月16日放送

#15 「黒田官兵衛 VS 竹中半兵衛」

#15 「黒田官兵衛 VS 竹中半兵衛」
#15 「黒田官兵衛 VS 竹中半兵衛」

天下人の軍師対決

慶長五年。関ケ原で徳川家康を総大将にした東軍と石田三成を中心にした西軍が激突。 天下分け目の死闘の末、家康の勝利で終わった。 家康は、小早川秀秋の寝返りに尽力した黒田長政に福岡藩52万3千石を与えた。 そして長政は意気揚々と帰国。父である黒田官兵衛に勝利の報告をした。 父官兵衛は、「もし家康をも殺していれば、おまえは殺されただろうが、天下は再び乱れ。 儂が天下を取れたかもしれぬものを。たかだか52万石で得意になりおって。」と半兵衛に。 実は官兵衛は関ケ原の戦いに乗じ、天下を狙っていた。 そして戦いで疲弊した関ケ原の勝者と雌雄を決すべく京に上る手筈まで整えていたのである。 一方、黒田官兵衛と共に秀吉の軍師である、生まれつき病弱で槍働きには向かない竹中半兵衛。 半兵衛は手柄や出世には興味がなく純粋に戦に勝つことを追求した軍略のアーティスト。 黒田官兵衛は、敵の城に乗り込み調略を成功させたり、城を丸ごと水没させるという水攻めの作戦を考え出した稀代のリアリスト。 二人は秀吉の二兵衛と呼ばれ、天下を取ることが出来たのも二人の力だと言われている。 時にはライバルとして激しく対立しながらも秀吉のために尽力。天下人の軍師対決、黒田官兵衛と竹中半兵衛のライバル対決が始まる!

秀吉の二兵衛

竹中半兵衛が軍師として世に知らしめたのは、美濃国稲葉山城の城主斉藤龍興に仕えていた21歳の時。 病弱で白い肌と女性のような容姿を持つ半兵衛を、龍興や近習たちは日頃から馬鹿にし軽んじていた。 ある日、半兵衛は近習たちに木の上からおしっこをかけられる。これに堪忍袋の緒が切れ、彼等を見返す計略を立てる。 城に住む弟の病気見舞いと称し15名の家臣たちと城に乗り込んだのだ。近習を倒し、逃げた龍興の代わりに城を占拠。 信長が攻撃しても落ちなかった稲葉山城を、わずか16名で攻略した半兵衛に人々は驚く。 そして「城を渡せば美濃半国を与える」と交渉して来た信長に、「名利のためにやったのではなく酒色に溺れる殿をいさめるためにやった」と答えると、城を返し隠棲。 その潔さと軍略に惚れ込んだ秀吉に三顧の礼で軍師に迎えられる。一方、黒田官兵衛は、播磨国御着城の城主、小寺政職の家老であった。 播磨国は西の毛利家と東から勢力を拡大して来た織田信長の間に位置し、この地に割拠する豪族たちは、どちらの陣営に帰属するかの選択に迫られていた。 御着城では、毛利家の帰属を望む重臣たちが多く、官兵衛だけが織田家支持を主張。官兵衛は、長浜城主の羽柴秀吉に信長との謁見を依頼。秀吉は承諾する。 謁見をした官兵衛は、信長に播磨国の情勢と見通しを尋ねられると「織田軍の早期出陣こそが去就に迷う豪族たちを味方にする鍵である」と答える。 官兵衛の能力を認め、気に入った信長は、播磨出兵に関しては秀吉に相談するように言う。そして、秀吉が官兵衛に紹介したのが竹中半兵衛であった。 後に竹中半兵衛と並んで秀吉の二兵衛と呼ばれるライバル黒田官兵衛が誕生したのである。

#15 「黒田官兵衛 VS 竹中半兵衛」

一つの手紙による二人の決裂の危機

秀吉は正式に中国方面軍司令官に任命される。しかし、すぐには播磨へ出陣が出来る状況ではなかった。 この間、官兵衛は秀吉に代って播磨国に割拠する豪族を織田側に引き込むために奔走した。そんな官兵衛の下に秀吉から感謝の手紙が届く。 田舎豪族の家老に過ぎない官兵衛に破格とも言えるほどの好意的な手紙。家宝にしたいほど嬉しく力づけられた。 その頃、官兵衛は織田家への帰属に反対する小寺家の重臣たちの巻き返しにあっていたのである。官兵衛は賭けに出る。 ひとり息子の松寿丸、後の長政を人質に出し、織田軍の播磨出陣を待ちわびる気持ちを示すことに。官兵衛はこの博打に勝つ。 ひと月後、信長から秀吉へ播磨国への出陣の命令が下った。秀吉の播磨国での最初の戦い佐用城攻撃の軍議でのこと。失敗が許されぬ初戦。 官兵衛は絵図面を出し、地形から敵の陣容まで目に浮かぶ見事さで説明した。半兵衛が一方の、攻め易い場所を差し言った。「官兵衛殿はこちらを攻められよ」。 何故有利な方を譲るのか。それは、半兵衛は若い時から病弱なため槍働きには向かず、出世よりもいかにして戦に勝つかに興味があったからだ。 一方、官兵衛の得意なのは敵を弁舌で味方に引き入れる調略だった。官兵衛はこの調略を使い、播磨国で最大勢力を誇る三木城の別所長治を織田家に引き入れることに成功。 ところがこの別所長治が毛利方に寝返った。播磨国の8割が毛利方となり官兵衛の手柄は水泡に帰した。 秀吉軍が危ないと考えた半兵衛は、信長の下へ行き3万の援軍を要請し、増兵を認めさせる。これにより秀吉軍は、三木城を包囲し形勢を逆転。 官兵衛は秀吉が半兵衛に感謝する姿に嫉妬する。官兵衛は以前に秀吉からもらった手紙を半兵衛に見せる。手紙を一読した半兵衛は、それを破り捨ててしまう。 何故、半兵衛は手紙を破り棄てたのか?二人に決裂の危機が迫る。

友情と命を賭けた行動

天正6年。秀吉に知らせが届く。有岡城の荒木村重が毛利方と手を結び信長に反旗を翻したらしいという。 秀吉軍は西に毛利、東に荒木という敵に挟まれることに。この危機に秀吉と二兵衛は話し合い、荒木の下に使者を送ることになった。 名乗りを上げたのは官兵衛。荒木は官兵衛に会うこともなく、捕縛し地下牢に監禁してしまった。 官兵衛の行方不明に信長は、「戻って来ぬのは裏切った証拠。人質の松寿丸を殺せ」と秀吉に命じる。答えに窮する秀吉。 半兵衛は言った。「その役目、拙者が仕りましょう」。そして、長浜城へと出かける。 そんなことを露とも知らぬ官兵衛は牢の隙間から見える藤の花を心の支えにして生き、有岡城が落城する日を待ち続けた。 約一年後、官兵衛は救出される。秀吉の所に戻った官兵衛は、半兵衛の友情と命を賭けた行動に感謝することになる。 死んだと思っていた松寿丸も半兵衛の家臣に守られていた。半兵衛は、信長に知られたら命がないのにそれを覚悟で動いていた。 官兵衛は、どれほど礼を言っても足りないくらいの気持ち。だがその機会はなかった。救出される5ヵ月前、半兵衛は亡くなっていた。 その死から7ヵ月後、播磨国は平定した。翌年、秀吉は毛利との決戦に向け備中高松城を目指す。回りを沼地に囲まれた備中熄シ城は攻め手には厄介な城。 官兵衛の作戦は、近くを流れる川を堰き止め、城を水没させるという水攻。誰もが前代未聞の作戦に成功を危惧した。しかし、折からの梅雨の大雨も味方し城は湖上に浮かぶ。 さらに大事件が起きる。本能寺の変である。秀吉は手紙にてこの事件を知る。腑抜の様になった秀吉に官兵衛は、半兵衛に代る軍師は自分だと考えこう言った。 「秀吉様、天下を取るのは今です」。正気に戻った秀吉は、毛利家と和睦し、信長の仇を討つため進軍を開始。そして明智光秀を破った秀吉は天下取りへの第一歩を踏み出す。 1587年。秀吉は、論功行賞を行い官兵衛を大名にする。しかしその石高は豊前中津12万石。官兵衛のこれまでの働きに対し少ない禄高であった…官兵衛の手紙を、半兵衛は何故破り捨てたのか。 官兵衛と半兵衛は秀吉に二兵衛などと持ち上げられ、単に好敵手として競わされていただけなのかもしれない。そして、秀吉は太閤にまで上り詰めた。真の勝者はどちらだったのか。

官兵衛の息子、黒田長政

官兵衛の息子長政。彼が愛用していた兜、一の谷形兜は半兵衛の形見である。長政はこの兜を被って関ケ原の戦いに参戦。 石田三成の家臣島左近の狙撃を成功させ石田軍敗走の一因を作る活躍をする。実はこの活躍の裏にも半兵衛の力があったという。 半兵衛は、長政の命を助けるため、詳しい地形と陣立ての方法を教えていた。竹中半兵衛に命を助けられ、黒田官兵衛に育てられた松寿丸こと黒田長政。 この長政が関ケ原で徳川家康に勝利をもたらし、豊臣の天下を徳川に渡すことになることを二兵衛は想像もしていなかったに違いない。

高橋英樹の軍配は…

ふたりには現代と昔、のようなものを感じるんですよ。官兵衛は現代的な思考を持って物事を捉えている。 半兵衛は過去の歴史的なものを踏まえたうえで物事を考えている。この2つの差があるような気がしますね。 今回は、そういう意味では、この番組は歴史を扱っている番組なので・・・竹中半兵衛で。 でも演じるなら間違いなく官兵衛。荒木村重に幽閉されて一年耐えて、助け出されて、というこの動きは演じがいがある。 そういうう意味では黒田官兵衛を、演じてみたいですね。