毎週木曜よる10時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 童門冬二
今回のTHEナンバー2はある有名な2つの歌からご紹介いたします。
「田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水」
汚職にまみれた田沼時代を揶揄し、その後を託され、寛政の改革を進めた松平定信に江戸庶民が期待した歌です。しかし、こんな歌も残されています。
「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」
定信の改革のあまりの引き締めに、庶民が辟易し田沼時代の華やかさを懐かしむ歌です。
財政改革に挑んだ田沼。寛政の改革で幕府を立て直そうとした定信。どちらの改革が幕府にとって真に必要なものだったのでしょうか?二つの歌の中にある真実を探してみましょう。
賄賂政治家の代名詞として知られている田沼意次。しかし、今日では優秀な改革者としても評価されています。田沼の改革は武士よりも町人の力が強くなってきた時代に貨幣経済中心の国作りを考えます。そして貨幣経済の発展により江戸は豊かになり、さらに歌舞伎や浮世絵等の江戸文化の発展も遂げてゆくのです。田沼は更なる偉業を成し遂げます。それは48年ぶりの日光社参の成功でした。田沼はみるみるうちに出世し、老中と側用人を兼任。江戸幕府始まって以来の強い権力を握りました。
天明の大飢饉。浅間山の噴火と冷害が大凶作をもたらします。当時白河藩主になったばかりの松平定信は次々に斬新な対策を打ち出してゆきます。凶作を免れた越後にある白河藩の飛び地から一万俵の米を送らせ、さらに江戸で食料品・日用品を買い集め白河に送らせたのです。そして不況の白河藩民に仕事を与えるための公共事業を考え、また特産品を次々に考案しました。そしてその資金は定信が責任を持って借金をし、白河の危機を救ったのです。その噂は江戸でも噂になり、飢饉対策の遅れた田沼政権の限界がささやかれ始めていきました。
田沼は失脚後将軍に手紙を送りました。「老中職にあるときはひたすら天下のためと、粉骨砕身努めてまいりました。私が少しも偽りを行わなかったことだけば伝えたいのです・・・」将軍のため、幕府のために尽くした人生。最も清廉潔白な男は、彼だったのかもしれません。定信は田沼失脚後、老中となり江戸で寛政の改革を実行します。飢饉にそなえ、農業重視の政治で町人文化を取り締まり始めました。世に言う「倹約令」です。しかし江戸ではすでに広く貨幣経済が浸透していました。「なぜわからぬ!全てはのさばる商人をこらしめ武士が権威を取り戻すためなのに」定信の政治は民を苦しませ結局、失脚させられます。 タイプの違う二人の改革者。…ふたりは今の日本をどうみているのでしょうか。