THEナンバー2

毎週木曜よる10時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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小早川秀秋

ゲスト: 加来耕三

「人面獣心(じんめんじゅうしん)なり!3年の間に祟りをなさん」

関ケ原の戦いで敗れた西軍の大谷吉継が、小早川秀秋へ投げつけた呪いの言葉です。小早川秀秋といえば、関ケ原の戦いでの裏切りが有名ですが、しかしなぜ、秀秋は西軍を、そして、豊臣家を裏切るという行動に出たのでしょうか。
その理由は、豊臣家に翻弄された秀秋の悲運なる生い立ちと関係しているのかもしれません。

秀秋は天下人になっていたかもしれなかった!?

'小早川秀秋'という一般的に知られる改名後の名前からはわかりませんが、秀秋は豊臣秀吉の正室・北政所の甥として生まれ、子供のない秀吉夫妻の養子でした。そして、天下人となった秀吉の後継者候補つまりナンバー2候補として、大切に育てられていたのです。遠征先から秀吉は秀秋に手紙を送っています。「5日に1度は爪を切りなさい…」。秀吉の秀秋への態度は、親ばかそのものだったとか。しかし、秀吉に実の子・秀頼が生まれたことから、秀秋の運命は一変します。

'秀吉''豊臣家'に翻弄される秀秋…

秀頼誕生後、秀頼を中心とした豊臣政権を構想する秀吉は、秀秋を小早川家へと養子に出し、朝鮮再出兵では秀秋を総大将として戦地へ送り込みます。すべては秀頼を愛するが故…。しかし、秀吉の寵愛を受けていた秀秋としては面白くありません。手の平を返したように冷遇する秀吉に対して、そして、朝鮮再出兵後に秀吉が秀秋に課した処分を裏で糸を引いていると噂された石田三成に対して、秀秋は恨みを持つようになってしまうのです。


19歳の秀秋が握った天下のキャスティングボート!

秀吉の死後、秀秋に救いの手をさしのべたのが、徳川家康でした。家康のおかげで、秀秋への処分はなくなります。なぜ家康は秀秋の味方をしたのでしょう。関ケ原の戦いでの秀秋の裏切りと東軍・家康の勝利の種は、この時すでに蒔かれていたのかもしれません。そして、秀吉の死から2年後、家康よる上杉征伐、三成による伏見城攻めをきっかけに、関ケ原の戦いへのカウントダウンが始まります。大軍率いる秀秋は魅力的な存在…。三成と家康よる秀秋獲得作戦は、開戦前日まで続けられました。三成の条件「関白」をとるか、家康の「上方二国」をとるか、19歳の秀秋の心は揺れ動きます。

'関ケ原の戦いを決めた'とされる秀秋だが…

関ケ原の戦いでの秀秋の裏切りは予期せぬものとされていましたが、近年では、西軍の石田三成や大谷吉継らは、秀秋の裏切りを知っていたとも言われています。その証拠に大谷の陣跡には、秀秋が陣を置いた松尾山に向けられた土塁跡が残っているのです。しかし、事前に裏切りを知っていたとしたら、なぜ、西軍は負けたのでしょう。そして、大谷の呪いの言葉が言い当てた、秀秋の悲運なる最期とは…。 豊臣家のナンバー2にもなれず、裏切り者と呼ばれて家康のナンバー2にもなれなかった秀秋は、戦国の世を生き抜くには弱すぎたとも言われます。皮肉にも、秀秋が味方したことによって勝利を得た家康が戦国の世に終止符を打ち、太平の世を築いていくのですが。


誰に対しても優しそうで、おっとりとお上品な顔立ちの小早川秀秋の肖像画。

秀吉の養子、後継者候補として育てられてきた秀秋。その面差しからは幼いころに大切に大切に、愛されて育てられてきたことを感じさせる「お坊ちゃん」の雰囲気を感じます。

おばである北政所からも大きな期待を受けて育っていったのでしょう。未来の関白として、幼いなりに自負もあったでしょう。

そんな彼、秀頼の誕生により人生が一変します。秀吉から疎んじられ、一大名の養子にされてしまったという秀秋。後々の関ケ原の戦いでの彼の「裏切り」が戦国史上最大のターニングポイントとなった、ということですが、さらにその後の人生は、暗く、酒びたりの人生が続き、早死をしてしまいます。

「裏切り者」のレッテルを貼られている彼ですが、幼いころから「裏切られてきた」ことの連鎖、誰を信じていいかわからないという疑心、そして本当に愛してくれるひとにめぐり合えなかったであろうその孤独、それを鑑みると、なんてかわいそうな人なんだろう…と思ってしまいます。

せつなさの残る回となりました。