毎週木曜よる10時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 加来耕三
戦国時代、信長に憧れ、秀吉、家康と仕えた戦国武将古田織部。千利休を師匠とし「侘び茶」の世界から独自の「へうげもの(ひょうげもの)」の世界をつくりあげた男の生涯に迫ります。
天下一の茶人といえば千利休。天下人・豊臣秀吉ナンバー2として政治に関わり、日本を動かした男ですが、その陰にはもう一人、茶人として生きた男がいました。古田織部。織部焼の名の由来となった男です。織部は茶碗をわざと割り、繋ぎ合わせた作品を作ったかと思うと、わざと歪みを持たせた作品をつくるなど、その「美」は"ひょうげもの"すなわち「ひょうきんもの」と呼ばれていきます。近年では織部を主人公とした漫画も連載され人気を集めるなどその美は現代でも多くの人をひきつけています。
天文13年、美濃の国に生まれた古田織部は、禄高わずか200石の田舎侍でした。織部は信長の使番、つまり戦場の連絡役として仕えました。そこで見た信長の美意識や「茶の湯御政道」といった茶の湯を政治に利用する信長の姿を側でみてきた織部は、茶の湯の持つ力の大きさを痛感するのでした。
利休がこの世を去ると、織部は利休の世界を一新します。狭く、ほの暗い小宇宙のような茶室には窓をつけ明るくし、相伴席を設け茶の湯に身分の上下を持ち込みます。茶碗も武家好みの多様なデザインと異国趣味を盛り込みます。自然が作り上げる美ではなく、自ら作り上げる美へ。その自由闊達な織部焼は"ひょうげもの"と称され流行を巻き起こしていきます。織部は利休から天下人の茶人を見事に引き継いだのでした。
1870年、時代が明治に変わっても新政府による改革は思うように進まなかった。中でも一番重要な課題は「廃藩置県」。この大事業を成し遂げられるのは西郷しかいない。新政府はそう考え大久保利通は涙ながらに説得。鹿児島ですでに廃藩置県を先取りする改革を行っていた西郷は見事「廃藩置県」を成功させるのだが・・・。しかし士族たちの働く場を奪ってしまった事に対して心を痛めた西郷は勝に「こげん面倒なこっになるんじゃったら、早う死んじょった方がましでごわした。」ともらしている。信頼する勝にだからこそ打ち明けられた本音だったのかもしれない。
秀吉亡きあと家康に仕えた織部は2代将軍徳川秀忠の茶道指南役となります。
家康との関係も上手くいくはずでしたが、家康は織部の作り出す「美」に恐れを抱きます。家康は秩序に収まらない織部の発想が武将たちの「下克上」の精神をあおるのではないかと危惧したのです。家康は方広寺鐘銘事件で蟄居を命じられていた清韓禅師を茶会に招きます。その権力に屈しない茶人としての行動に利休の姿をみた家康は、織部に豊臣方に通じ、家康暗殺を企てたという疑いをつきつけ切腹を命じます。織部は一切の言い訳をせずその生涯を閉じます。武将茶人としての生きた男の美はこれにより、いったん姿を消しますが、昭和になると偶然にも私たちの前に姿をあらわします。ひょうげた美は現代の陶芸家たちにより受け継がれ放たれ続けています。
こう見えて、中高と茶道部に所属していた私。
カトリックの女子校だったのですが、担当の先生は厳しいシスターの先生。
あまりのスパルタぶりに、完全なる幽霊部員となっていました…。
あとあと後悔をして、大人になってから茶道もあらためて習いなおしましたが、もっともっとまじめに習っていればよかったなあ…と反省しきりです。
茶道(私は裏千家でしたが)で良いのは、なんといってもあの静寂でしょう。お湯が沸くシューッという音、お湯をお茶碗にトトト…と柄杓で注ぐ音、そしてたまに外から聞こえる飛行機や鳥の鳴き声…それだけしか聞こえない環境に身をおくあの「無になれる」空間がなんともいえず魅力的なのです。
信長をはじめとしたなだたる戦国武将も、同じような感覚を抱いていたのでしょう。その「静寂」にさらに「面白さ」を加えたのが古田織部、というところでしょうか。これまでひょうきんなお茶の先生には会ったことがありませんが…一度でいいからそんな先生に習ってみたい!そしてもう一度お茶を理解したい!そんなことを思ってしまいました。