毎週木曜よる10時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 加来耕三
日本を代表する文化として、世界にその名を轟かせる忍び、「忍者」。
実在する忍者の中で最も有名なのが服部半蔵ではないでしょうか?
しかし、彼は「忍び」ではなかったのです。ではいったい服部半蔵とは何者だったのでしょうか?家康のナンバー2として仕えた服部半蔵の正体に迫ります。
伊賀の服部家は、代々、伊賀忍者のリーダー役を務める家系でした。だが半蔵の父、保長は、忍びの長ながら、伊賀を出て、三河の松平家に、仕官します。そして、保長は、半蔵には忍術とともに、武士としての武芸を学ばせたのです。「忍者である限り、高い地位は得られない。お前は武士として名を立てるのだ」父は、半蔵にそう言い聞かせていたと言います。今風に言えば、半蔵をプレイヤーとしてではなく、監督として育てようとしていたのです。
家康の家臣となった半蔵。家康最大の危機を救います。1582年。信長から駿河を拝領された家康は、半蔵たち近習数10名を連れて、安土に赴きました。そして6月2日、朝。堺で茶会を開いていた家康の下に、変事の報がもたらされます。「明智光秀の謀反により、織田信長が死亡」。流石の家康も、激しい動揺を覚えます。光秀は、家康がわずかな手勢しか連れていないことを知っている。今襲われれば絶体絶命。生涯最大の危機。一行は、伊賀の山中を越えて、岡崎城への帰還を計画。しかし、伊賀の山は敵味方もわからない山賊や土豪が待ち構える険しい道。この難局を打開できる人物は服部半蔵しかいない!!
一行に先んじて伊賀入りした半蔵は、御斎峠で狼煙を上げ、服部一族の忍者たちを召集。説得を試みます。この半蔵の決死の交渉により、敵にまわる可能性もあった200人もの伊賀忍者衆を、味方につけることに成功します。無事に岡崎城へと帰還した家康は、半蔵に告げます。「我等の護衛を務めてくれた200名の伊賀衆を、徳川家の家臣として召し抱えたい。彼らには『伊賀同心』の名を与える。そなたは、彼らを率いる頭領となるのだ」
こうして幾度となく家康の命救った半蔵の名は、「半蔵門」として後生に語り継がれることとなったのです。実はこの半蔵門の名前にもある秘密が隠されているのですが・・・
半蔵門、が服部半蔵から名づけられた門である、ということを今回の収録で初めて知り、衝撃を受けた小林悠です。
しかも、その半蔵のお墓が都内、しかもしかもわがTBSの近く、四谷にあるだなんて二十の衝撃!
もちろん早速半蔵のお墓参りにいってまいりました。
半蔵のお墓のすぐ近くには家康の息子、信康のお墓もあるのですが…
その二つがよりそうようにたっているのがなんともいえず、ぐっときました。
信長に切腹を命じられた信康。その介錯人を務めたのが半蔵でした。
しかし「主人の首を切り落とすことなんてできない…」と男泣きをした半蔵。
結局自分では介錯できなかったのでした。
その思いがずっと尾を引いていたのでしょう。信康の魂を鎮めるべく半蔵は出家をし、お二人のお墓がある西念寺のもとを作り上げたのでした。
二人の死後から何百年も経過していますが、ずっと変わらぬつよいつながりを感じさせたお墓参りとなりました。