毎週木曜よる10時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 加治将一
明治維新の礎となった「薩長同盟」。この歴史的な出来事を成立させたのは、坂本龍馬とされています。しかし実はその陰にはある立役者がいました。彼がいなくては同盟が成立する事はなかったとも言われています。その人物とは中岡慎太郎。彼の知られざる努力に迫ります。
坂本龍馬と中岡慎太郎。龍馬は商家の次男で苛められっ子、12歳まで学問とは無縁の生活。かたや慎太郎は大庄屋の長男として生まれ育ち、3歳のころから習字を習い、7歳から往復3時間かけて塾に通ったといいます。生まれ育ちは対照的な2人ですが、のちに急接近することになります。14歳で田野学館に通い始めた慎太郎は先生をしていた武市半平太と出会います。やがて、武市半平太が立ち上げた「土佐勤皇党」に参加。坂本龍馬と共に尊皇攘夷に賛同したのです。この時から土佐藩は攘夷へ向け大きく舵を切ることになります。
1862年、武市半平太ら勤皇党のトップは、藩主の江戸参勤にお供し、土佐をあとにします。人選にもれた慎太郎は「50人組」を結成し、自費であとを追うことに。ついに実現した江戸行き。慎太郎は高杉晋作、久坂玄瑞、佐久間象山ら新しい国作りに夢を抱く志士たちと出会います。そんな時、薩摩藩と会津藩が公武合体派と手を組み、尊皇攘夷派の撲滅を図ります。三条実美ら7人の公家が京都から追放される「七卿落ち」です。この前年、龍馬は吉田東洋暗殺の罪で脱藩しています。時代が動き始めるなか、慎太郎も脱藩を決意します。向かった先は長州・三田尻。ここには京都から逃れた三条実美がいます。慎太郎はいくつもの偽名を使いながら三条のナンバー2として奔走します。しかし、池田屋事件が発生したことにより尊皇攘夷派の多数の志士が命を落とすと、禁門の変、長州征討令へと時代が急変。慎太郎ら長州勢は危機的状況に陥ります。
慎太郎は長州の危機的状況を乗り越えるために、敵藩である西郷隆盛のもとに向かいます。必死の交渉の結果、三条らを大宰府へ移すのと引き換えに幕府軍を撤退させる約束を取り付けます。「薩長連合ができるかもしれない」敵対する勢力が協力すれば幕府に対抗できるかもしれない。西郷隆盛との交渉の過程で慎太郎の頭にはこんな思いがよぎったのでした。
幕府から兵器の購入を禁じられていた長州藩。慎太郎は亀山社中を設立して間もない龍馬と協力し、幕府を通さずに兵器の購入をすることを思いつきます。亀山社中を通せば、幕府に知られることなく取引ができるからです。武力討幕が現実味を帯びていきます。
その翌年、ついに坂本龍馬のもと薩長同盟が成立しますが、そこに慎太郎の姿はありませんでした。慎太郎は三条実美と公武合体を支持する下級公家の岩倉具視を結びつけるために次の行動を起こしていたのです。敵対する2人ですが慎太郎の決死の説得に三条の心は動きました。薩長同盟の役者をそろえた陰の立役者、中岡慎太郎ですが、歴史は慎太郎の努力に答えることはありませんでした。将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したのです。この大政奉還のあと、悲劇が起きます。1867年11月15日。近江屋にて、龍馬と慎太郎は刺客に襲われ、死をむかえました。新しい日本をつくるべく奔走した若き志士の無念の死となりました。維新のために慎太郎が歩いた距離は1万2千キロに達したと言われています。
「日本を変える」ここまで強く国のことを考える若者は現代の日本にどれだけいるでしょうか・・・。
中岡慎太郎の、こちらをまっすぐにみつめるあの写真。
大変有名な写真ですが、見る度にあの写真からは彼の意思の強さやまっすぐさ、いい意味での強情さが伝わってくるようです。今回の収録では、もちろん龍馬のナンバー2としての彼の姿を見て行くのだろう、と思っていたのですが…
どうやら彼の人生は単なる「龍馬の親友」としての存在にはおさまらないものであったようだ、ということがわかるのです。
あのするどい眼差しで、常に「誰のナンバー2になるべきか」見定め続けていたのが中岡慎太郎の生き方そのものであったのだろう…と…。
また加治先生ならではの解説、推理には本当にひきこまれてしまいました!
収録後その足で「幕末 維新の暗号」を買いに行ったのは言うまでもありません。