毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 加来耕三
今回のナンバー2は、司馬遼太郎が「明治国家の父」と呼んだ小栗上野介。
なんと彼は日本の代表として初めてアメリカへ渡り、日本の近代化の基礎を築いたのです。ラストサムライ小栗上野介。その人生に迫ります
1860年、幕府は前年に結ばれた「日米修好通商条約」の批准書の交換のため、アメリカに使節団を派遣することを決めます。時の大老、井伊直弼は、小栗を使節団の実質的なリーダーとなる目付役に抜擢。小栗は日本の代表としてアメリカへ渡ります。そんな小栗たちに幕府はもうひとつの任務を与えます。それは"アメリカという国がどういう国か、しっかり見てくること"。アメリカは使節団を盛大に歓迎します。はたして小栗の目は、アメリカをどうとらえたのでしょうか?
批准書の交換を終えた小栗らが次に向かったのは、フィラデルフィアの造幣局。ここで小栗は、アメリカに有利だった通貨の交換比率を改めることを、アメリカ側に訴えたのです。通貨の含有量の全量分析を拒むアメリカに対し、小栗は「NO」と主張します。この時の毅然とした態度がアメリカ人に好感を与えたのです。
小栗はアメリカで大きな衝撃を受けます。それはワシントン海軍造船所を見学した時のこと。そこでは船だけでなく、歯車やシャフト、それらを止めるネジまでもそこで作っていたのです。"日本でもこのような総合的な施設を作れば、産業面でも近代化を推進する大きな力となりうるのではないか"。小栗は帰国後、造船所の建設を幕府に訴えるのでした。
1865年、時の将軍・徳川家茂が造船所の建設を許可。横須賀の地に造船所が完成します。そこには、小栗がアメリカで見た光景がそのまま生かされたかたちとなりました。マストやロープの工場、さらに、技術を教える学校までも…。小栗は造船所にとどまらない総合施設を建設したのです。
小栗は造船所の建設のほか、西洋式の労務管理、マネジメント制を採用し、現代の会社経営の基礎となる概念を導入しました。さらに徳川慶喜が将軍となると、株式会社兵庫商社を設立。株式会社の制度を使い水洗トイレを装備した「築地ホテル」も建設したのです。
しかし、時代は変わっていきます。大政奉還、王政復古を経て新政府発足が決定。新政府への徹底抗戦の態度を貫いた小栗でしたが、徳川慶喜は、恭順策を採用。これにより徳川幕府の歴史が幕を閉じます。そして、新政府の命を受けた高崎藩士は小栗を捕縛。小栗は斬首されてしまいます。
あらゆる面で日本の近代化をリードしてきた小栗上野介。先見の目を持った人間が歴史の表舞台から消えていく日本の歴史。現代日本は英雄たちの功績を今こそ見直してもよいのではないでしょうか。
名門出身で頭脳明晰、難局にも常に正攻法で臨み
幕府を支えた小栗。
すべてを手にしている感がありますね。
底辺から這い上がり組の勝海舟、西郷隆盛、大久保利通にとってみたら
目の上のタンコブ的な存在だったのかも。
お役ご免になって地元で穏やかに暮らしていたのに
捕縛即打ち首になったのは一種の恐れからだったのでしょうか。
もう少し小栗がその辺に敏感だったら
念願の第1子に対面できたかもしれないのに。
もっと「生」にこだわって欲しかったです。