毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 加来 耕三
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」しかし、「君子危うきに近寄らず」。
そんな時、危険を冒すのは家臣の務め。今回のナンバー2は、幾多の武勇を持ち、その槍で虎をも退治したと言われる、伝説のヒーロー加藤清正です。江戸時代の儒学者、荻生徂徠は、清正のことをこう表現しました。
「近世にて人の手本となるべきは、加藤清正を超えたるはなし」
最期まで豊臣家への忠誠を貫いた忠義の武将、加藤清正の生涯に迫ります!!
清正が秀吉の小姓となったのは11歳のとき。もともと、秀吉とは遠縁にあたります。
清正21歳、その名を世に轟かせる時がきます。それが「賤ヶ岳の戦」敵の鉄砲大将・戸波隼人を討ち取り、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりにその名を連ねます。「賤ヶ岳の七本槍」、それは、秀吉が自ら見出したナンバー2たちの勝利の伝説の始まりだったのです。
賤ヶ岳の戦以降も順調に秀吉の家臣としての武功を積んだ清正。ついに加藤清正は26歳にして肥後の北半国の19万石を治める大名となります。それまで1万石にも満たない藩主だった清正は大出生を果たします。当時の肥後は一揆が多発する難治の国。武功派のイメージが強い清正ですが、清正は秀吉ゆずりの細やかさで、新田開発や南蛮貿易など領地経営を進めました。清正は、実はそろばんも得意だったのです。領民の清正人気は高まっていきましたが、一方、肥後の南半国を与えた小西行長とはあまりうまくいきませんでした。秀吉はこの二人を使って、ゆくゆくは大陸侵攻の先鋒にと考えていたようで、お互いを競わせていた節があったと加来先生は言います。
小西の所領はキリストが盛んな土地柄。そこへ主君の秀吉がバテレン追放令を出します。
秀吉に忠誠な清正、一方、苦慮したのはキリシタン大名の小西。二人は敵対します。
この対立、一般的には清正と行長の日蓮宗徒VSキリシタンとの構図で語られがちですが、実は宗教とはほとんど関係ないとの考え方もあるのです。武断派の清正は、時間をかけると、豊臣政権がなめられていると天下に露呈することになるので一気に片付けてしまったほうが良いと考え、一方、時間をかけて説得すれば必ずいい結果がでると、根気強く交渉をし続ける文治派の行長。この方法論の違いが二人の確執の原因とも言われています。
虎退治など武勇で名を馳せる一方、地方行政の能力にも長け、名城を築城し、地元では清正公さんと親しまれている一面もある清正。その城には、秀吉に忠義を示した、あるものが残っているという。近年、復元された「昭君の間」そこにはある隠語がかくされており、清正が秀吉に最後まで忠義を尽くそうとしたことがわかるのです。その隠された事実は…?
東京・白金台にも「清正公前」という大きな交差点があり
身近に感じる加藤清正。
戦場では武功派でありながら
行政能力もあり、あの熊本城を築いた築城の名手でもあるマルチな武将です。
これだけの人物なのに天下をねらうことなく
秀吉の遺児秀頼を守ろうとしました。
秀吉への強い憧れ、尊敬、恩を忘れなかったということでしょうね。
いまでも慕われるその理由がここにありそうです。