毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト: 加来 耕三
可愛さ余って憎さ百倍とはよくいったもの。愛情と憎しみは相反するものでありながら、表裏一体、密接に結びついて離れないのです。今回は豊臣秀吉の愛情を一身に受けながらも、運命の悪戯によって切腹を命じられるに至った悲劇の関白、豊臣秀次の生涯に迫ります!!
生まれつき秀次の背中には「豊臣家」の重圧がついて回るのでした。当時、何よりも重要なのは「家」の存続。子供のいなかった秀吉は、甥の秀次を、政略の道具として利用。そんな「秀吉のコマ」として生きてきた秀次に、ついに存在を主張する機会が訪れます。それが「小牧長久手の戦い」。秀次はこう進言します。「それがしが大将としてまいります。奇襲の件、ぜひともお許しくだされませ」。秀吉はしぶしぶ容認しますが、悪い予感は的中。奇襲隊の動きは、完全に見破られ、見るも無残な大敗北を喫したのです。
この失態によって、家康と講和せざるを得なくなった秀吉は、秀次に、敗戦の責任を問う書状を出したのです。「甥であることを鼻にかけ、傲慢な振る舞いが目立つ」「ただいまのように無分別でうつけであるならば、人に恥であるからお前を斬らなければならない」。しかし一見、厳しいようですが本来であればここで首が飛んでもおかしくないところ。身内にも厳しくというパフォーマンスだったのか。いわゆる愛のムチといったところでしょうか。
秀次18歳。秀吉から近江43万石を与えられ、八幡山城の城主となります。ここにきて、才能が開花。信長時代の安土を見習った政策を次々に成功させます。そして、24歳にして秀吉から関白の職を譲られるのです。しかし、ここで正式に秀吉の後継者として認められたことこそが、悲劇を招きます。 まもなく、秀吉の直接の血を引く秀頼が誕生してしまうのです。頂点に座するのはひとりだけ・・・。秀吉の愛情は、そのまま憎悪へと転じるのでした。
泣いて馬謖を斬るのならまだしものこと。秀吉の感情的な都合で腹を斬った秀次。悲劇的なまでに最後まで「豊臣家」というレールから逃れられなかったのです。しかし、彼を失った「豊臣家」が辿ったレールはもはや末路でしかなかったのです。
秀吉によって天国から地獄へと急転直下の人生の秀次。
関白職から切腹まではわずか1週間。理不尽すぎる人生です。
それにしても秀吉は血縁が少なく苦労したはずなのに どうして秀次の子どもや
家族まで計39人も処刑したのでしょうか?
"秀頼かわいさ"というにはあまりに視界の狭い行動です。
家を安定的に存続させるには子どもの頭数が必要なのは歴史が語っていることなのに。
関が原で、大阪の陣で、もし秀次や豊臣を名乗る子が生きていたなら
また違った展開になっていたでしょうに。