毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:井沢 元彦
鬼平こと、長谷川平蔵。作家、池波正太郎の小説「鬼兵犯科帳」により一躍その存在を知らしめた人物である。実は長谷川平蔵、実在した人物。ヒーローであるがゆえ、苦悩もあったその真実の人生に迫ります。
平蔵の父・宣雄は、京都の西奉行まで出世した人物。延享3年(1746)に東京赤坂で生まれました。平蔵の若い頃は遊び人だったという記録が残されている。しかしこの若き頃とは想像できない、苦悩の人生を平蔵は送ることなる。ターニングポイントは、浅間山の噴火による「天明の大飢饉」。この影響により、老中は田沼意次から「質素倹約」を掲げる松平定信へと代わります。平蔵は、41歳の時、定信から放火犯、盗賊を専門に取り締まる「火付け盗賊改」に任命されます。しかし、定信は「田沼時代の悪しき置き土産」とみて田沼に気に入られていた平蔵のことを決して好いてはいませんでした。平蔵の苦悩の人生が始まります。
「火付盗賊改 加役」となった平蔵は半年後に本役に昇進し、8年間その役職を勤めた。
その活躍ぶりは、江戸の判例集に残されているだけで150件もの犯人逮捕の記録が残されています。その行動は「まさに神技だった」と幕府も認めています。なかでも「妖盗・葵小僧」の逮捕では、被害にあった女性の名が、裁判によって公にならないよう、葵小僧をお白州にかけることなく、獄門死させている。この一件に象徴されるように、平蔵は江戸の庶民に対する気配りを欠かさなかった。ここに、現代に至るまで庶民から愛され続けるヒーローの原点がありました。
平蔵が松平定信から評判が悪かった理由として、犯罪人を密偵として雇っていたことや、火事場の泥棒を防ぐために家紋の張った提灯を各所に掲げたこと(売名行為とみなされた)があげられる。庶民の着物の柄まで制約した「寛政の改革」を行った定信にとって平蔵の手法はその対極にあるものとしてしかうつらなかったのです。通常なら「火付盗賊改」を勤めた後は町奉行などに昇進するのが通例であったが、定信はそれらを拒み、8年間も「火付盗賊改」の地位に据え置き続けました。この8年間は平蔵の人生において「影」の部分だったのかもしれません。
平蔵の活躍とは反対に、江戸の犯罪は増加していった。「犯罪の生まれる土壌そのものを変えなくては治安は良くならないのではないか」平蔵は定信に無宿人(住所不定の人々)たちの職業訓練施設を作ってはどうかと提案する。この時ばかりは、定信も心を動かされ「人足寄場」の創設を決めると、その責任者を平蔵に任せた。これで、平蔵の人生に光が射す・・・と思いきや平蔵の昇進は見送られてしまう。平蔵の運命やいかに!?
作家池波正太郎大ファンの私はおおむね小説と実際の長谷川平蔵の人生が
同じと知って うれしい気持ち。
でも 小説には書かれなかった事実がありました!
それは上司である松平定信とウマが合わず出世の道が閉ざされていたこと。
仕事ができて人情深い鬼平は「完璧な男」ですが
あの鬼平も悩んでいたことがあったかと思うと急に身近に感じてしまいます。