毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:童門冬二
現代の日本の平均寿命は80歳ほど。しかし、遡ること約400年。はるか昔の江戸時代にあって106歳もの長命を誇った、ひとりの僧侶がいました。高齢にもかかわらず、その活躍ぶりには目を見張るものがあった。 家康から徳川将軍三代にわたって参謀を務めあげ、265年にわたる徳川幕府の礎を築いとも言われている。 家康が、その遅すぎた出会いを悔やみ、死後をも託したと言われるほどの男。今回のTHEナンバー2は、家康を神にした男 大僧正 南光坊天海の偉大なる謎に迫ります!!
1608年、駿府城にて天海は家康との初対面を果たします。すでに家康65歳、天海72歳。家康はこの出会いをこう評しています。「天海僧正は 、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」。しかし、この遅すぎた出会いこそが家康の死後に天海が大きく関わる所以でもあるのです
1616年の1月、駿府城で徳川家康が、重い病に倒れました。自らの死期を悟った家康はこう遺言を残したのです。「わが遺骸は久能山に納め、一周忌が済んだら日光山に小さな堂を建立し、わが霊を招き寄せよ。我は八州を守る鎮守となろう」。
そして、1616年4月、徳川家康が亡くなります。ここから天海独自の教義「山王一実神道」に基づくビッグプロジェクトが幕を開けるのです!!
家康の死後、天海は引き続き将軍・秀忠の顧問役を務めました。天海は、徳川幕府を安泰に導くためには江戸城の方位学的な吉相を高めることが重要と考え、そのための事業に、力を注ぎ始めます。
なかでも力を注いだのが上野。江戸城から見て鬼門の丑寅、北東の方角に あたる上野山に、東叡山寛永寺を建立。東叡山とは、東の比叡山の意味。比叡 山が京都の鬼門の位置に置かれ、都を守護しているのと同じ役割を、寛永寺に 担わせたのである。さらに、琵琶湖弁財天に見立てた不忍池弁天堂、清水寺を 意識した清水観音堂など、江戸に京を中心とした西の街が再現されていったのです。これは比叡山の復興を願った天海の宿願でもありました。天海はある意味で自らの理想の為に徳川幕府を利用したとも言えるのです。しかし、いずれにせよ、天海の抱いた理想は、現代までも庶民を楽しませる名所という形で東京のあちらこちらに残されているのです。
戦国〜江戸時代に106歳まで生きた天海、超人です!
本人が家康に語った長生きの秘訣は
「粗食、正直、白湯、お経、時々オナラ(!)」
ユーモアがありますね〜
江戸幕府を磐石なものにしたいと考えていた家康に方位学や占星術の見地から
江戸の守りを固めるためのアドバイスをし実行されました。
それが 日光東照宮に目黒不動や目白不動、不忍池、寛永寺など、
現在の私たちに身近なものばかり。
江戸時代はとっくに終わっているのに天海の構想は今も生きている!
不思議な気持ちになりました。