毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:加来耕三/ リポーター:前川泰之
未だ秀吉が木下藤吉郎だったころ。山賊の寄せ集めにすぎなかった秀吉軍を常勝軍団へと変えて行った竹中半兵衛。強い者だけが生き残れる戦国時代。その中で半兵衛は、いったいどのようにして山賊集団を常勝軍団へと変貌させたのでしょうか?それは、戦国時代のルールとは全く"逆"の発想…。刀を…、捨てることでした。秀吉のナンバー2竹中半兵衛の実像に迫ります。
華奢な体つきで結核の持病をもっていた半兵衛が、戦国の世を生き残るために必死で身につけたのが、『孫子(そんし)』をはじめとする中国の兵法書でした。そこから身に付けた事が調略でした。織田信長は京都を制する為に欲した稲葉山城は足掛け7年にもわたり攻め続けていたが調略を得意とした半兵衛はわずか16名で攻め落とすことに成功したのです。
稲葉山城を落城させた半兵衛。しかし家督を弟にゆずり半兵衛は隠居してしまいます。 "知らぬ顔の半兵衛"とはここから来ているそうです。しかしこれほどの人材を見逃すわけがありません。信長が半兵衛に登用のラブコール!しかし半兵衛がついたのは秀吉でした。なぜ半兵衛は秀吉についたのでしょうか。それは、半兵衛がもつ天下への思いがありました。
調略の才を無私無欲で行う半兵衛と出世に利用する黒田官兵衛。あまりに対極な性格だったと言われています。しかしこの二人に強い絆を生むエピソードがあります。それは官兵衛が有岡城で幽閉され城に帰って来なくなりこれを裏切りだと勘違いした信長は官兵衛の息子黒田長政を殺せと命じます。それを引き受けたのが半兵衛でした。しかし半兵衛は長政を殺さずにかくまいます。しかし半兵衛は若くこの世を去ります。その後官兵衛の無実が発覚しそして息子と再会することが出来ました。その後、息子長政が残した半兵衛にまつわるあるものが現在でも残っていました。 それは、ひとつの兜。その兜の形とは…
小さいころから病弱だった半兵衛が
戦国時代に生きていくために身につけた「調略」
思い通りに動かない体にかわり 想像力を駆使して人を動かす力。
秀吉と出会ったことでさらにダイナミックに発展しました。
ところで無欲な半兵衛と功名心がある黒田官兵衛、
同じ秀吉の軍師でも全然性格が違ったようですね。
後輩軍師の黒田官兵衛の息子の命を助けたのが半兵衛。
病弱だったからこそ 命に特別な思いがあったに違いありません。
その息子(黒田長政)はのちに関ヶ原の戦いで武功を上げ、52万石の大名に。
半兵衛のカブトを愛用していたとか。ジーンとくるエピソードですね。