毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:井沢元彦/ リポーター:JIN
THEナンバー2 今回は柳生宗矩。日本が戦国から平和へとダイナミックに動いた時代、一地方の剣術士がその波に乗り、幕府閣僚、徳川の3代に渡るナンバー2として活躍したのが柳生宗矩。柳生新陰流の剣とは人を活かす剣と書いて「活人剣」この哲学と柳生一帯の隠密ネットワークを自在に駆使して、徳川泰平の基礎を作り上げた男。その軌跡は記録としては殆んど残っていません。しかし、彼がいなければ関が原の戦いや、大坂の陣も違った結果になっていたのかもしれないのです。今回はこの謎多き剣士、柳生宗矩の真実に迫ります。
関が原の戦いから遡ること6年前、あらゆる分野に勉強熱心な家康はある剣士のうわさを耳にし、その腕前を確かめるために呼び寄せました。その男とは宗矩の父、石舟斎宗厳。 斬りつける役を宗矩が担当、対する宗厳は剣を持たずに両手をだらりと下げるのみ。宗矩が斬りつけたその瞬間、宗矩の体は宙を舞う…。目の前に起こったことが信じられない家康が自分でも確かめるべく幾度も斬りつけるが結果は同じ。その場で家康は石舟斎に入門を申し出ます。しかし、石舟斎は高齢を理由に辞退してしまい、代わりに24歳の宗矩が家康の剣の指導をすることになったのです。秘儀無刀取りは後の天下人に認められ、柳生新陰流は天下の剣術として動き出すことになります。
慶長5年(1600年)、宗矩に人生最大のチャンスが訪れます。関が原の戦いで、宗矩は戦の戦法に剣術のノウハウを起用。同時に柳生の里を中心とした伊賀、甲賀の忍びのネットワークを駆使し、敵の動きを収集しつつガセネタを流すなど情報戦も展開し、見事、東軍を勝利へと導いたのです。このような動きは隠密裏のうちに行われたため、記録には残されていませんが、その後、柳生家は石高を増し旗本へと出世。事実戦功はあったと認められました。
二代将軍秀忠は年号を「元和」と改め、元和堰武という言葉が広まりました。堰武とは武器を収めて使わないこと。平和の時代がそこまで来たとき、天下を揺るがす事件が起きます。 千姫を巡る坂崎出羽守の暴動事件。この事件の原因には日本の平和を揺るがす重大な問題が隠されていました。各地に広がる幕府への不満です。事件の納め方如何では、再び戦国の時代に逆戻りしかねない…。事件の処理に当たった宗矩は、丸腰で完全武装した坂崎出羽守の屋敷に乗り込み、説得に成功すます。その武力に頼らない事件の解決と宗矩のネットワークは、徳川泰平の基礎を作り上げたと言っても過言ではありません。
宗矩の矩という字。あまり日常目にしない字ですよね。
長男が生まれたときに命名辞典とにらめっこして この字をみつけ
候補のひとつになったことがあります。
意味は「一定の規準。わく。」(漢字源より)
名は体をあらわすといいますし どんな子になってほしいか
夫婦で話し合った結果 結局は全く違う漢字を選んだのですが
その名のとおり 宗矩は平和の時代の規範となり
新しいわくを作ったといえそうです。
剣で人を殺めることはしないという活人剣。人を殺さずに悪を殺す。
その実行には 並みの胆力でなかったことが想像できます。