THEナンバー2

毎週月曜22時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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水戸光圀

ゲスト:井沢元彦/ リポーター:河合朗弘


THEナンバー2 今回は水戸光圀。徳川家康の孫で本名、徳川光圀。その活躍を描き江戸時代、庶民に人気だったのが「水戸黄門漫遊記」。副将軍を隠居した光圀が諸国を回り世直しをする物語。しかし、副将軍という役職は存在せず、実際の光圀は全国も回っていませんでした。生類憐みの令で人々を混乱に陥れた綱吉に唯一物申したのが光圀でした。この、筋をきちんと通すイメージから物語が次々と生み出されてきたと考えられます。しかし、光圀の真実の姿はもっと偉大なもの。それは光圀がやり始め、250年かけて作られた日本の歴史の編纂でした。これが幕末の志士を動かし、徳川幕府の終焉のきっかけにもなったと言われます。明治維新は光圀の思想が起こしたものなのか…。黄門様の真実の姿を探ります。

光圀、出生の秘密

寛永5年に生まれた光圀。父、頼房は将軍家の末子。兄たちにまだ、嫡男がいなかったことから跡継ぎ争いを避けるため、側室には子を「水にせよ」 つまり、堕胎を命じていました。しかし、それを不憫に思った家臣が匿い、光圀を育てることになります。頼房の指示通りであれば、後の黄門様は存在しなかったのです。


「史記」との出会い。 綱吉との関わり。

若いころ、実はかぶき者として市中を遊びまわり、その悪評は江戸中に知れ渡っていたという光圀。しかし18歳のときに「史記」と出会い、学問にのめりこみます。やがて日本にまだなかった史記のような人物別の歴史書を作ろうという思いへとつながって行くのです。5代将軍綱吉は光圀が強く推薦して決まりました。しかし、仏教に深く傾倒していた綱吉は生類憐みの令を出し、この極端な法は江戸市民を困らせます。
将軍に間違いを指摘する家臣が出ない中、唯一物申したのが光圀でした。この法を悪法と捕らえる向きも多いがゲストの井沢元彦さんは反対の考え方があるといいます。


光圀が編纂を始めた大日本史に影響を受けた幕末の志士たちは

光圀の死後、水戸藩の事業として大日本史は引き継がれていきます。
そして明治39年、実に250年の時間をかけ光圀の意思が402巻の形となって完成します。 この大日本史は、幕末の志士吉田松陰や西郷隆盛にも影響を及ぼしたと言われています。 天皇を重視する水戸の思想は「水戸学」と呼ばれ、尊皇攘夷思想として広がり、倒幕運動へと転換していきました。水戸藩出身の最後の将軍慶喜は、将軍就任時「徳川でなく、天皇、そして日本を見よ」という言葉を残し、徳川家は15代慶喜をもってその通りに幕を閉じました。
光圀は徳川家を永遠の日本のナンバー2だと語りたかったのかもしれません。


人生〜楽ありゃ苦もあるさ♪ とつい口ずさんでしまうくらいおなじみの黄門さま。
@若いころはかなりのワルでやんちゃ者だった!
@実際は水戸と江戸の往復と鎌倉にお墓参りに行くくらいだった!
と、ドラマとは違う黄門さまの素顔ですが大功績といえるのが編纂した「大日本史」。
のち若い志士たちの拠りどころとなり 大政奉還へとつながっていきました。
‘徳川家の人間によって蒔かれた種が 徳川幕府を終わらせる結果へ’
ものすごく皮肉なめぐり合わせのようですが ドラマの中のように
「これでいいんですよ」と黄門さまは微笑んでいらっしゃる気がします☆