THEナンバー2

毎週月曜22時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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松平定信

ゲスト:加来耕三/ リポーター:前川泰之


今回は徳川家斉のナンバー2、松平定信。寛政の改革を行い、自らが理想とする江戸時代を実現しようとした男。その素顔に迫ります。

江戸時代、田沼意次から松平定信へ

松平定信が活躍した江戸時代は、100万人を超える大都市。歌舞伎や浮世絵、川柳といった町人文化が花開いていた。この華やかな時代を作り上げたのが、田沼意次。意次は、これまでの農業中心の政策から、貨幣経済を導入し、豊かな経済社会が生まれた。ところが、浅間山の噴火、天明の大飢饉といった災害が庶民を襲う。徳川幕府は最大の危機を迎え、田沼は失脚。この時、将軍についていたのがわずか15歳の徳川家斉。その徳川家斉を支えたのが老中・松平定信なのだ。定信がとった政策とは?


田沼意次の否定 寛政の改革

定信の功績「寛政の改革」は、質素倹約をうたい田沼意次が開花させた町人文化も取り締りました。特に浮世絵は規制され、絵師たちに衝撃を与えました。ところが、この規制の中で生まれてきた天才もいたのです。写楽はその一人。蔦屋重三郎により見出された才能が開花したのもこの時でした。浅間山の噴火、天明の大飢饉といった未曾有の災害が、このような才能をも生み出したのです。定信は、寛政の改革を行う前、田沼意次を生涯幽閉しています。田沼政治の否定です。この行動は田沼への恨みだったともいわれています。なぜなら、定信は名門、田安家の跡取り候補だったところを田沼意次は経済的な負担を減らすため、定信を白河藩へ養子に出していたからです。跡取り候補として優秀だった定信にとって田沼の行動は、悔しい思いだったのかもしれません。


白河藩での活躍

寛政の改革が行われる前、定信は白河藩にいた。現在の福島県白河市には、定信の功績が今でも残されている。そのひとつ、南湖公園は定信が作った日本最初の公園。もともと使い道のなかった沼地を公園にしたもので、当時、景気が悪い白河藩の失業者に雇用を生むために定信が作ったとされている。このほか、南湖だんご、白河だるまなど定信を偲ぶことができる名産が息づいている。

幻の掛け軸

寛政の改革を行い、堅物のイメージが強い定信だが、それを覆すようなものが発見された。それは掛け軸。鳥の絵が描かれたこの掛け軸は、定信が描いたもの。この豊かな筆使いから定信の多彩な一面をみることができる。このほか、定信が亡くなる年に書かれた掛け軸には、黒船到来を警告する内容の文章が書かれている。黒船が日本に来るのはこの24年後のことである。江戸時代、危機を乗り越え、寛政の改革を行って来た定信。人々の目線に立ち、考え、堅実なアイディアを確実に実行してきた男の姿がそこにあった。


男の恨みはコワイ。とにかく田沼憎し!の松平定信。
この人の人生は思い通りにいかないことが多く苦しかっただろうなぁと思います。
時代の変化に 一歩先の政策をしようとしたのが田沼意次なら
5歩前の生活に戻ろうとしたのが松平定信でしょうか。
でも 古きよき時代に戻ろう!というのは
変化を求められた時の日本人の心の奥底にある願望のような気もします。
先のわからない劇的な変化をするくらいなら
不便を我慢しても昔に戻ってもよし、みたいな。
そういう意味で 今こそ松平定信から学ぶことは多いのかもしれませんね。