毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:童門冬二/ リポーター:TAIGA
今から350年前の大火災の際、災害復興を果たした日本のリーダーがいた!今回のナンバー2は、徳川3代将軍家光に命じられ、4代将軍家綱のナンバー2となった保科正之です。保科正之は、文治政治の魁と謳われ、江戸、そして、会津藩において、ヒューマニティある政治を行いました。今、日本が学ぶべきリーダーの手本がここにあります。
江戸の3分の2を焼き尽くし、10万人もの犠牲者を出したと言われる明暦の大火。その時、リーダーシップをとり江戸の復興に尽力したのが保科正之でした。火が迫る中、浅草の米蔵を活用した画期的な発想、そして、民衆の視点に立った正之の江戸復興策とは。正之ならではアイデアが光ります。
保科正之が幕政に参加するようになったのは3代将軍家光の頃から。それには正之の出生も関係しています。というのは、正之は2代将軍忠家の庶子、つまり、家光の弟だったのです。家光は忠長という厄介な弟に頭を悩まされていたため、最初は正之を観察していましたが、優秀で信頼できる人物だと確信し、重用するようになります。正之は家光の期待と恩に応え、家光亡き後も家綱と徳川家のために忠誠を誓うのです。
保科正之は会津藩初代当主としてもその力を発揮します。当時、東北地方は飢餓や餓死者が出やすい地域でしたが、お米を備蓄する「社倉」や90歳以上の領民にはお米が終身支給されるという独自の年金制度を創設し、会津の人々を救いました。世界ではじめて年金制度を創設したのはドイツのビスマルクと言われていますが、それより200年も早く、正之が年金制度を作っていたと言えるかもしれません。
いったいどうやってこんな謙虚な人物に仕上がったんだろう?というくらい
己の分をわきまえていた保科正之。
父は2代将軍秀忠、母は侍女のお静。
「あなたは将軍の血を引くけど出る杭は打たれるから注意しなさい」と
小さいころから言われ続けたに違いない。
「ホントは俺だって!」というところが少しでも見えたなら
ここまでの活躍はできなかったはずです。
自我を消すことで歴史に名を残したといえるかもしれませんね。