THEナンバー2

毎週月曜22時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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成田長親

ゲスト:井沢元彦/ リポーター:中田あすみ


今回の主人公は成田長親。成田長親とは誰か?
実はこの男、日本史を変えてしまうほどのことをしてしまった人物なのです。長親を題材にした「のぼうの城」はベストセラーにもなった小説です。なぜ、これほどまで人々を魅了するのか? その謎と歴史の陰に隠れた名勝負の背景をみながら長親の人物像に迫ります。

ナンバー2になってしまった成田長親

天正18年の関東地方。天下統一を果たすべく動き出した豊臣秀吉は総勢約20万という大軍勢を率いて北条氏の居城、小田原城を包囲しました。この戦が天下統一へ向けた最後の戦い「小田原合戦」ですが、この決戦の裏で日本の歴史を動かすある戦が行われていたのです。それは「忍城攻防戦」。秀吉のナンバー2石田三成率いる2万3000の兵が、わずか3700人で守る忍城へ攻めてきたのです。忍城とは、現在の埼玉県行田市付近を拠点としていた武家、成田氏の居城。当時、城主であり、成田家ナンバー1の成田氏長は北条氏の加勢のため不在。城代となった泰(やす)季(すえ)は長親の父ですが、開戦後まもなく死去してしまいます。泰季は長親にこう言い遺しました。
「我が死んだらお前が本丸に入って指揮をとれ」
この運命のいたずらにより長親はナンバー2となってしまったのです。


「のぼう様」が城を守ったのは本当か?忍城攻防戦の謎

小説「のぼうの城」の長親は「のぼう様」と村人から親しまれる人物として描かれています。戦よりも田植えが好きという長親は、田植えを手伝うも、村人が3日かけて植え直すほどの不器用な人物でしたが、村人は善意から手伝ってくれる長親を怒ることができなかったといいます。そんな長親が守る忍城を落城させるため、石田三成は「水攻め」作戦を思いつきます。総延長28キロといわれる堤防を築堤し、利根川と荒川の堰を切り、城を水で囲み降参させようとしたのです。しかし数日後、奇跡が起こります。なんと堤防は決壊し、三成軍の兵士が多く溺死したというのです。なぜそのようなことがおこったのか…? 諸説ありますが、村人たちが堤防を決壊させた、という説もあり、領民から愛される長親の人柄が堤防決壊へと導いたのかもしれません。

代々受け継がれた領民を愛する心

領民を愛する長親の人柄は、代々受け継がれています。忍城を築城したとされる15代親泰は、用水路を開削し、田を潤しました。12代家時は神社仏閣を立て直すなど、領民から中興の祖と呼ばれ、成田家を隆盛に導きました。忍城攻防戦当時の城主・氏長は、戦国時代のなか、木綿に着目し商業政策にも力を入れました。
「のぼう様」こと長親には武功はないが、領民の力を味方にする力が忍城を守りきったのです。

忍城攻防戦は日本史を変えた!?

天正18年7月。忍城開城。石田三成はこの「水攻め」の失敗から、戦下手とされ「関ヶ原の戦い」では敗北してしまいます。この忍城の攻防戦は、日本史を大きく変えるきっかけとなったとも言える戦いです。
攻防戦後の長親は、下野烏山へと移り住み、晩年は尾張に暮らしたと言われている。歴史的一戦の舞台となった「忍城」は、関東7名城のひとつとして、その名を刻んだのです…。


いろんなことが重なりタイミング良く(悪く?)
城を任されることになってしまった成田長親。
その城を攻めてくるのは天下のナンバー2石田三成。
しかも金も人もジャブジャブ使ってのド派手な水攻め。

成田長親の何がすごいって この状況に全くあわてず
「いつも通り」の‘のぼう’様でいたことだと思います。 
ひょんなことからスポットライトを当てられただけに
この時代の一般武士の空気感を垣間見たような気がします。