毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:童門冬二/ リポーター:鳴海剛
桶狭間の戦いであえなく討ち死にしたことから、信長の引き立て役としての印象が強い今川家と義元。だが、信長の父・織田信秀の代に今川との間に戦が起こった際、いずれも勝利したのは今川軍の方でした。 その時今川軍を指揮していたのは義元でなく、その軍師、太原雪斎という僧侶でした。僧侶でありながら、軍師参謀として自ら戦場に立ち、今川家に尽くし、信玄、家康という、戦国史を彩る武将の誕生にも深く関わった。「戦国最強の僧侶」太原雪斎の知られざる正体に迫ります。
今川義元の教育係を務めていた太原雪斎。雪斎は今川家の家督争いが起こった
とき、その策士ぶりを見事に発揮します。
雪斎は内乱を制するため、それまで敵対関係にあった甲斐の武田家に向い、当
主・武田信虎から、義元の家督相続への支援を取り付けたのです。
武田の支持を取り付けた雪斎は、自ら武将として、反乱一派との戦いに参戦。得意の軍略を駆使して、攻め立てました。
「雪斎、寸胸の工夫、調略を以って、国家を安泰に導くなり」。
後にそう語られるほどの活躍により、義元を当主の座に導いたのです。
1546年、今川義元は、三河への本格的な侵攻に乗り出します。その頃、尾張の織田信秀もまた、三河の征服を目指していた。岡崎城主の松平広忠は、今川に同盟の締結を仰ぎます。 総指揮官、雪斎は、広忠の嫡男・竹千代、後の徳川家康を、人質に取ることを条件に、同盟を約束。ところが、護送の道中で竹千代は織田信秀に強奪されてしまいます。それに対し、雪斎は安祥城を攻め、織田信秀の長男・信広を生け捕りにすることで、竹千代との人質交換を成功させたのです。その後、竹千代は雪斎のもとで教育を受けました。
「雪斎亡き後は今川家の国政整わざりき」。これは後に、徳川家康が語った言葉です。僧侶として、軍師・参謀として、何役も兼ねてきた無理がたたったのか。1555年、太原雪斎は息を引き取りました。雪斎の死から5年後。今川義元は自ら指揮を取った桶狭間の戦いで、織田信長の奇襲を受けあえなく討ち取られました。全てを委ねていた、強すぎるナンバー2を失った時、すでに今川義元の命運は、決まっていたのかも知れません。
僧侶が軍の総指揮官って!?
でも「人質交換」や「三国同盟」などは
平和を愛する僧侶ならではの発想といえるかも知れません。
雪斎は戦場で采配を振るという実践のほかにも
竹千代(のちの家康)の教育も行っていました。
雪斎の「戦争のない平和な時代」というコンセプトは
家康によって見事に花開いたといえそうです。