THEナンバー2

毎週月曜22時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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武田信繁

ゲスト:加来耕三 / リポーター:TAIGA


THEナンバー2 武田信繁。武田信玄のナンバー2といえば、山本勘助。と答えたくなりますが、実は山本勘助、その人物像は後世によって作られた人物だと言われています。では、真のナンバー2とは? それが信玄の4つ下の弟・武田信繁なのです。目立った武勇伝もない信繁が残した功績、それは「家訓」。武田家を支えた真の副将といわれる、武田信繁の素顔に迫ります。

対照的な兄と弟

兄・信玄は幼少の頃、弟・信繁とよく比較されました。馬に乗っても落馬ばかりする信玄に対し、信繁は巧みに乗りこなしました。また父・信虎は「据物切り」という罪人を切って刀の切れ味を試すとき、「お前たち一人ずつ切ってみろ」と言います。信玄は足が震えて切り先も定まらず、罪人を切ることが出来なかったのに対し、信繁はなんなく「据物切り」を行った。そんな2人をみて父・信虎はついに「家督は信繁に譲る」と言い出します。通常なら家督争いに発展しかねないのですが、信玄・信繁兄弟がとった行動は意外なものでした。

父親を追放した兄に従った弟

戦争を続け、独裁的になっていく父・信虎を、信玄は国外に追放してしまいます。なぜ信玄にこのような行動がとれたのか? それは家臣らに担ぎ上げられた可能性があるとされます。と、すれば、信玄はお飾りにすぎなかったのかもしれません。しかし、信繁は信玄に従うことを決めます。父の追放後、兄弟がまず行ったことは家臣たちを従わせるための「法律」作り。それが「甲州法度之次第」です。その特徴的なのが「第五十五条、信玄はもし自分がこの法律を守らなかった場合、自分自身も法律の裁きを受ける」。これは、家臣たちを従わせるために兄弟が考え出した苦肉の策。その後、信玄は戦ではなく、川の治水工事を行うなど民政にも力を入れ、その権威を知らしめていきます。

川中島合戦!兄のために討ち死にした信繁

1561年、第四回川中島の合戦。上杉謙信の奇襲攻撃に混乱を起こす武田軍。絶体絶命のピンチを迎えたこの時、信繁は信玄にこう言ったといいます。
「援軍は無用。われらが防いでいる間に、勝利のご工夫あれ」
信繁は最前線で戦い、ついに壮絶な死を遂げたのです。敵を欺くため信繁は信玄の旗印を掲げて戦ったという話も残っていることから、この時謙信が刀を交えたのは信繁だったのかもしれません。兄を守るため上杉軍と戦った信繁の勇姿は、謙信や信長など、敵対する武将らもその勇敢な最後を讃えたと言われています。

○ 信繁家訓九十九ヵ条

信繁が後世に残したのが「家訓」。その名は「信繁家訓九十九ヵ条」。なかでも、家臣たちとの関係について書かれた条文は、兄・信玄にも影響を与えたといわれています。 「二十条 家臣に対しては、慈悲肝要のこと」「三十八条 人を召使う時は、その適正を考えて命ずること」「五十二条 家来が勝手に離反して他者に仕えても、反省したなら、事情に応じて許し再び家来とすること」。そして、第一条「屋形様に対して未来永劫逆意を抱かないこと。屋形様とは信玄のこと」。信玄への絶対服従を命じているものですが、信繁の兄に対する愛情がここらも読み取ることができます。兄を支え続けたナンバー2の姿は「家訓」という形で今の世にも受け継がれているのです。


もしかしたら兄信玄よりも優秀な武将だったのかもしれないのに
人生を兄のサポートにささげた人物。
血で血を洗うような家督争いをするイメージが強い戦国時代ですが
こんな兄弟もいたのですね。
有名な「信繁家訓99か条」の中で感心したのは
「たべものが贈られてきたときは兵たちにも少しずつ分配すること」の項目。
すごく些細なことだけど こういうことって昔から重要なことだったんですね。
気配りの武将だったことがうかがえます。