毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:井沢元彦 / リポーター:前川泰之
今回のナンバー2は、丹羽長秀。木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間。これは織田軍団の四人の武将を表した詠です。この中で米に喩えられた武将、米五郎左こそ織田軍団の礎を築いた男、丹羽長秀です。地味ながらも決して欠かせない存在であった長秀。その実像はあまり後世に伝えられていません。今回は織田軍団の中で最もミステリアスな武将、丹羽長秀の素顔に迫ります。
織田信長の天下の象徴とも言えるのが安土城。信長の考えたプランは安土山の山頂に地下1層、地上6層の巨大な城を築くという前代未聞のものでした。しかし、そんな大胆な発想を如何にして具現化するのか。そんなとき、必要となるのは目立たなくとも着実に物事を処理できる人物です。長秀は持ち前の高い事務能力と並外れた実行力で見事に信長の理想を現実のものにして見せたのです。
信長の大胆な発想を現実の城として実現した長秀。その土台としたのが石工集団の穴太衆がくみ上げる石垣。その集団が作る石垣は現代のコンクリートの強度にも匹敵するほど。その仕組みは、大きな石の間に小詰め石と呼ばれる小さな石を組み込み、バランスをとっているのです。個性豊かな信長軍団をうまくまとめてきた長秀。
個性豊かな武将たちをまとめる小詰め石のような長秀がいなければ信長軍団はとっくに空中分解をしていたかもしれません。
信長のナンバー2であった丹羽長秀。しかし、本能寺の変によってその主君を喪います。ナンバー1亡き後、ナンバー2はどうすべきか。そこで長秀は、あくまでもナンバー2でいることを選びます。長秀は秀吉のナンバー2としての道を歩み始めます。
しかし、秀吉の命によって信長の三男信孝が切腹。長秀はこれに激怒します。長秀はあくまでも織田家のナンバー2としての忠誠心を忘れていなかったのです。
そして、天正13年、秀吉の下に長秀からある荷物が届きました。なんと長秀は自ら腹を割き、腫瘍を取り除いて自害していたのです。腫瘍は世にも奇妙な形で石亀そっくりだったと記録が残っています。添えられた手紙にはこう記されていました。
「これがそなたに対する自分の心持ちである」。
享年51。二大天下人に仕えたナンバー2丹羽長秀の壮絶な死でした。
丹羽長秀みたいな人は現代の人事システムでランク付けすると
評価しにくいタイプかもしれません。
とりたてて武功はない。
でも 信長にも秀吉にも重用されたその理由は
組織を円滑に動かすために絶対に必要な
緩衝材のような役割だったのではないかと言われています。
しかし この“戦国武将のいい人”丹羽長秀が
人生の最後に現代では考えられない抗議方法で秀吉に怒りをぶつけます。
切腹して自ら胃の腫瘍を抉り出し秀吉に送りつけたのです。
ホラーですね(*_*;
戦国武将の腹の据わり方、ハンパじゃないです!