毎週月曜22時オンエア
綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。
TOPへ戻るゲスト:加来耕三 / リポーター:福島彰吾
THEナンバー2 第7回は家康の三男にして、将軍を引き継いだ男、徳川秀忠。
家康と三代将軍家光にはさまれ、影の薄い存在ではあった秀忠。実は、不安定な徳川政権の基盤を築いたといっても過言ではないほど、優秀な存在だったのです。父、家康に「律儀すぎる」とまで言われた秀忠。その律儀さで徳川政権の安泰を支えました。
今までの秀忠のイメージが払拭されること請け合いの今回のTHEナンバー2。
現代の社会で活躍する2代目リーダーにこそ見ていただきたい内容です。
関が原の戦いに参じるも、途中の真田攻略に手間取り、父家康に激怒されたとされ、 ここから武将としての秀忠は無能といわれることになります。しかし、実は戦に遅れた理由は、父、家康も承知の上だったというのです。むしろ、ある考えがあった家康の命によって時間稼ぎをしていたのではないかと加来耕三先生は考えます。
家康政権が立案した政策を、秀忠が執行する法度の数々。律儀すぎるナンバー2秀忠の本領が発揮され、大名たちが次々と改易されていきました。その結果、家康が切ることができなかった創業期の功労者の不純分子も、秀忠は容赦なく改易。禁中並公家諸法度では、天皇の勤めは和歌や学問の修行と規定。政治との切り離しが行われるなど、幕藩体制の安定化に貢献したのです。
家康は正信を関東総奉行に任命しました。
この結婚は明らかに政略結婚でした。お江は秀吉の養女として、秀忠のもとに嫁いだとも いわれ、この結婚により徳川と豊臣が婚姻関係を結ぶことになります。しかも、末娘和子(まさこ)は後水尾天皇の女御として入内させ、後の女帝明正天皇を産むことになります。
秀忠の目指したもの、それは徳川、豊臣、そして天皇家が融和し一体化した平和な国家だったのでしょうか。
関が原に遅れてきた男、秀忠。 これによってダメダメな御曹司のイメージの強い秀忠ですが それが家康の指示で計画通りの行動だったとしたら?! ガラリと印象が変わります。
偉大な父。周りはみんな古参の家来。その中で自分の仕事は何なのか? 秀忠は父家康の実績を超えようとライバル心を燃やすのではなく 徳川幕府の安泰のために自らの功名心を消したのでしょうね。 名を捨て実をとる、賢い2代目だったのです。 ゲストの加来耕三先生は 「徳川秀忠に学ぶ二代目の生き方」という題で 全国で講演されているそうです。毎回中小企業の社長さんたちの熱気で ムンムン。歴史を紐解けば現代に生かせることがたくさんありそうです。