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第224回 2005年4月9日放送鹿島建設 梅田貞夫社長

現在、東京都心は再開発ブー ム。あちらこちらで新しいビルの建設ラッシュが続いている。タクシーの運転手さんに聞いても、街の顔があまりにも急ピッチで変化しているので、戸惑ってしまうほどだと言う。そうした中、今、何かと話題を集めている東京・六本木ヒルズを手がけたのが大手ゼネコンの鹿島建設だ。

ゼネコンというと公共事業というイメージが強いが、最近は、公共事業の減少で民間事業を数多く手がけている。既に鹿島建設では民間事業が全体の75%を占めている。 それだけに景気動向に左右されやすくなる。例えば、大都市圏の景気は好調だが、地方経済は依然として厳しい状況が続いている。そのため、そのため鹿島でも、都心の高層マン ションの受注は好調だが、地方はどうしても低調だという。

建設市場の動向をみると、建設投資額は1992年度の84兆円をピークに減少しており、1997年度は約52兆円と、ピーク時の40%も減っている。にもかかわらず、建設業者の数はあまり変わっていない。まさに、少ししかない椅子を大勢の建設業者で取り合っている状況かもしれない。

しかし、こうした激しい競争の中にあって、鹿島建設の業績は好調だ。2004年度は総受注高1兆4844億円、経常利益は490億円に達する模様だ。その勝因は『構想力』と『技術力』にあるという。

《構想力》
梅田社長ご自身が「ゼネコンの不良債権処理は終わった。今は構想力の合戦だ」と言うほど重要な要素となっている。例えば、かつてマンショ ンを購入する際、2DKや3LDKなど規定の部屋に入居者が合わせるのが当然という考えだったが、このような部屋だと家族構成が変わった時に対応できない。そこで鹿島建設は、梁や柱を建物の外周部に配置することで、間取りを自由に変更できる『フリープランハウジン グ』という新しいマンションを販売している。家族構成の変化に応じて長く住めると評判は上々とのこと。もちろん、こうした構想力は、都市の大規模再開発事業でも発揮されている。現在、日本を代表する電気街、東京・秋葉原の再開発が進められているが、公募によって鹿島を含む3社がコンペを勝ち取った。日本のIT拠 点・産学協同を実現したいとの提案が評価された。

《技術力》
1949年に業界初の技術研究所を創設した鹿島は、一貫して建設技術の研究に力を入れている。やはり一番多いのが地震対策関係だ。地震の揺れを抑える『制震構造』は鹿島が業界で初めて開発し、いち早く実用化。現在、この分野では、同業他社と比べても圧倒的な受注実績を誇っている。(2004 年度の累計は104件。2位の業者の2倍以上)
さらに鹿島では、津波を再現できる巨大プールやビル風を実験できる巨大扇風機などの実験設備を所有しており、一民間企業とは思えないほど建設技術の研究に力を入れている。こうしたハード面だけでなく、地震が発生した際に、近くの石油タ ンクにまで揺れが伝わる時間や、タンクの中身の揺れ具合などを予測するプログラムを開発するなど、ソフト面の研究開発にも力を入れている。自然災害に関する実験が多く、鹿島の研究開発の約5割を占めているという。

梅田社長は「金融主導の建設業界の再編はほぼ終了した。しかし、自社の強みを生かした前向きな再編は今後も起こり得る」と見ている。まだまだ進化しそうな鹿島建設。どうか、私たちが「こんな素敵なところに住みたい」と思えるような街づくりを続けて頂きたいと思います。

語録 〜印象に残ったひと言〜
  • すでに民間事業が主力。それだけに競争は激化している/b>
  • 鹿島の強みは構想力と技術力
  • 不良再建処理の時代は終わった。今後は構想力で勝負
  • 金融主導のゼネコン再編は終了。前向きな再編は今後もあり得る
亜希のゲスト拝見

今回、鹿島のトンネル工事の現場を取材させていただきました。きっと泥だらけになると思い、それなりのスニーカーで挑んだのですが、現場に行ってみてビックリ。綺麗な現場、石も泥もない。すべて巨大なポンプが地上に吸い上げているからだ。また機械作業が多く、人の数が少ない。やはり少し暑かったですが・・・。

梅田社長はダムの建設現場を長く経験されてきた方です。トンネルの工事現場が綺麗だったとの感想を申し上げると、「ゼネコンは周りの人が思うようなところじゃ ないんです。3Kではないんですけど、なかなか理解されなくて」とおっしゃっていました。

梅田社長は、見るからにもスポーツマン。高校時代は野球をかなり本格的にやっていらしたそうで、高校野球の監督になることが夢だった時もあったそうです。優勝経験もある鹿島のアメフト部「DEERS」の初代部長でもあります。

6月からは会長に就任される予定ですが、社長時代の9年間を振り返って、「世紀をまたいで、ゼネコンの低迷期から引っ張ってきた。大変だった」と笑顔で話されました。ハードな仕事をやり遂げられたのは、若い頃からの鍛錬の賜物かもしれませんね。