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天正10年6月2日。京都本能寺で歴史的大事件がおきた。本能寺の変である。1万3千の兵が静けさの中、寺を取り囲む。率いるのは明智光秀。狙うのは主君織田信長の首だった。時の声とともに、矢玉や鉄砲の音が炸裂したのだ。信長はわずかな手勢とともに自ら防戦。しかし、圧倒的な兵力の前に、深手を負うと、寺の奥へと引きこもり、自ら火を放ち自害した。これが戦国の風雲児と呼ばれた信長の最期であった。信長暗殺は明智光秀の謀反によるもの。これが通説とされている。
しかし、その理由についてはいまだ謎が多く、これまでも、怨恨説、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説などいくつもの説が唱えられ、そのいずれもが、光秀を実行犯としている。しかし最近、これまでとは全く違う驚きの新説が現れ注目を集めている。
それは…光秀冤罪説。その新説が指し示す、信長殺しの糸を陰で引いた人物とは…なんと、光秀最大のライバル秀吉。信長の腹心、秀吉と光秀。歴史上最大のミステリー本能寺の変の真犯人とは・・・!?
草履取りから身を起こし、猿と呼ばれながらも信長の懐に飛び込んだ秀吉。かたや光秀が信長のもとにやって来たのは、すでに40歳近くなってからのこと。知行だけでなく、比叡山焼き討ちの実行部隊となるなど武功でも名をあげ織田家臣筆頭にまで上り詰める。
信長は、秀吉と光秀を競わせるように働かせ、自身の大きな目標である「天下布武」を成し遂げようとしていた。天下統一まであと少しの信長は四国攻めを光秀に、そして中国地方は秀吉に攻めさせていた。当初、光秀は四国で対立する長宗我部と三好のうち長宗我部と手を組み勢力を伸ばそうとしていた。しかし、その途中で信長が突如方針を変換。三好と手を組んでの四国侵攻に変わる。これまでの成り行きから、光秀は四国攻めの役から外されてしまう。そんなときだった。中国地方平定のため、備中高松城で毛利軍と対峙していた秀吉から、信長のもとに出陣の要請が入る。秀吉の要請を受け信長はみずからの中国出陣を決める。そしてその先発隊を命じられたのが光秀だった。それは秀吉の支配下への降格を意味していた。ライバルに家臣筆頭の座を奪われたのだ。
信長亡き後、謀反人光秀を討った山崎の合戦。秀吉を勝利に導いたのは、毛利との戦いから飛んで帰った中国大返しの成功だった。しかし、この歴史に名高い快挙にこそ秀吉の深遠な企みが数多く隠されているのだという。さらに中国大返しまでの秀吉の不可解な行動に注目してみたときある可能性が見えてくるのだ・・・。
その一、
秀吉が安土城にいた信長に援軍を求めたとき毛利の軍勢は5万と記していた。
しかし、実際にやって来た毛利の援軍は1万数千。秀吉はなぜ信長に敵の数を多く報告したのか?
その二、
信長の死を知った秀吉。するとにらみ合いから一転瞬く間に和議を成立させた。
しかし、なぜ猛者揃いの毛利軍と、いとも簡単に和議を取り結ぶことができたのか?
その三、
最大の疑問がこれ、2万の軍勢をたった10日間で220キロ移動させる中国大返し。
この偉業、本当に何の準備もなしに成功させることは可能なのか?
信長の死の謎を解く鍵は、その死の前日にあたる6月1日に本能寺で開かれた、「茶会」にあった。この茶会は朝廷で力を持つ公家のために開かれたと考えられているが、本当の客人は違った。信長が迎えた客は博多の豪商で茶人の、島井宗室とその義弟神屋宗湛であった。目的は島井宗室の持つ大名物茶入「楢柴肩衝」。名物狩りに熱を上げていた信長はすでに「初花肩衝」「新田肩衝」を所有していた。この「楢柴肩衝」を手に入れれば天下三大大名物茶入が揃うこととなる。信長は以前から、島井宗室と会い茶入れを譲ってもらうことを熱望していた。つまり、喉から手が出るほど欲しかった茶入れを餌に、信長は誘い出されたのである。では、この茶会をセッティングしたのは一体誰なのだろうか?その人物こそ千宗易。のちの千利休である。信長の信頼が厚かった利休。その利休が本能寺の変の5日前に養子である少庵に送った手紙が残されている。その中に、不可解な記述があるのだ。
「上様御上洛との由、承った。播州(秀吉)はどうなっているのか?情報が分かり次第、早々に連絡を請う」秀吉といえば京都から遠く離れた備中高松で毛利と戦っている最中なのは周知のこと。当然利休も知っていたはず。なのに、なぜ利休は秀吉の情報を気遣っているのだろうか?
謀略に負けた光秀というのは、やっぱりその「時」に負けたんですね。どんな悪いことをしても、謀略に勝った秀吉が、その後天下を治めてゆく。ただ天下を獲った秀吉も、その最期は非常に不幸でした。歴史というものは繰り返すような気がするんですが、こと、この「本能寺の変」、この戦いに関しての勝者は・・・羽柴秀吉!