毎週水曜 よる10時放送
平安時代末期。「貴族の世」から「武士の世」へと移り変わる時代の転換期。武士の二大勢力、「平家」と「源氏」は覇権を争い、「平治(へいじ)の乱」が勃発した。戦いは、清盛率いる平家が勝利し、源氏の大将・義朝(よしとも)は命を落とした。当時13歳だった義朝(よしとも)の三男は伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流刑に処され。腹違いで2歳の弟は、母が清盛の妾となる事で命を救われる。成長した二人は、打倒平家に立ち上がる。源氏の棟梁(とうりょう)であり、鎌倉幕府を創設した天才政治家。源頼朝。その兄を助け、奇抜な戦略で次々と平家を打ち破った戦の天才。源義経。二人は共に力を合わせ、平家と戦った。が…連戦連勝し、得意になった義経は、棟梁である頼朝の許可なく、勝手に朝廷(ちょうてい)から官位(かんい)をもらってしまう。亀裂が入る二人の仲…義経の活躍で、ついに平家を滅ぼした源氏軍。そして…頼朝は、武家政権設立のため、義経に対して重い決断をする。追いつめられた義経は兄の誤解を解こうと、一通の手紙を出す。しかし、その思いは頼朝には届かず、ついに兄弟は互いを殺しあう「ライバル」となってしまう。武家政権の設立を目指す兄と。非凡な才能をもった軍事家である弟。血を分けあう兄弟は なぜ憎みあったのか?
平治の乱で源氏を倒して以来、世は清盛率いる平家の独裁となっていた。治承(じしょう)3年。ついに清盛は、対立した後白河(ごしらかわ)法皇までも幽閉してしまう。この事態に、平家を討つため挙兵した人物がいた。頼朝である。頼朝が挙兵したことを知った清盛は、孫の維盛(これもり)に5万の兵をつけ、頼朝討伐(とうばつ)を命じる。が、これに対し、頼朝はその4倍20万の兵で迎え撃ち。結局、平家軍は戦わずして退却していった。その翌日。頼朝の本陣に、一人の青年が訪ねてきた。義経であった。平治の乱当時2歳だった義経は、処刑を免れ、京都の北にある鞍馬(くらま)寺に入れられた。ところが義経は、父を殺され、母をとられた清盛への怨みを忘れなかった。義経は毎夜、寺を抜け出し、この僧正谷(そうじょうがたに)にて武芸の稽古に励んだという。16歳になると義経は、東北一帯を支配していた藤原(ふじわらの)秀衡(ひでひら)を頼り、奥州(おうしゅう)平泉(ひらいずみ)に下った。秀衡(ひでひら)は義経を快く受け入れ。以降、義経はこの奥州(おうしゅう)で運命の日を待った。そして、6年後の治承(じしょう)4年10月21日。頼朝の挙兵を聞いた義経は、兄のもとに駆け付けたのだった…。義経21歳。頼朝33歳。二人が顔を合わせたのは、この時が初めてだった。しかし。互いが互いを完全に理解するには、あまりに遅すぎる出会いであり、この出会いが悲劇の始まりであった。
兄弟の出会いから4ヶ月後の、治承(じしょう)5年閏(うるう)2月。宿敵、平清盛が64歳で亡くなる。急激に力を弱めた平家は、幼い安徳(あんとく)天皇と共に都を離れ、福原(ふくはら)を本拠地とした。寿永(じゅえい)3年2月。頼朝は7万の兵をもってその福原を攻めた。「一の谷の戦い」である。源氏に勝利をもたらした義経は意気揚々と京都に凱旋(がいせん)。が、頼朝は、武功(ぶこう)を称えるどころか何の恩賞も与えなかった。全国の武士を束ねる立場にあり、秩序を重んじた頼朝は、2万の兵を置き去りにし単独行動をとった義経を許せなかったのだ。ところが、都の人々は違った。大功(たいこう)を立てた、義経の名は瞬く間に世に広がり、人気は沸騰。すると、この義経の人気に目をつけた人物がいた。朝廷の最大権力者、後白河法皇である。後白河は、義経に平家追討(ついとう)の褒賞(ほうしょう)として、検非違使(けびいし)という官職を与えた。頼朝が認めなかった義経の勲功(くんこう)を、後白河が評価したのだ。だが…この報せを聞いた頼朝は激怒。義経を平家追討(ついとう)軍から外してしまう。しかしその半年後。平家討伐(とうばつ)がいっこうに進まない状況に業を煮やした頼朝は、再び義経を前線へと送る。「屋島(やしま)の戦い」である。ここでも義経の独断専行(どくだんせんこう)は源氏に勝利をもたらしたのだった。ひと月後、ついに源平最後の決戦、「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」をむかえる。数では優っていた源氏軍だが、海上での戦いが不得意なため苦戦。しかし、形勢は一気に逆転。源氏の勝利は決定的となり、平清盛の妻 時子(ときこ)は、幼い安徳(あんとく)天皇と共に海に身を投げた。こうして、長きに渡って続いた源平合戦は、源氏の勝利で幕を閉じたのだった。ところが、平家を滅ぼした義経は、最後の最後に重大なミスをおかし、頼朝の怒りをかってしまう。頼朝がどうしても平家から取り戻したかった三種の神器も一緒に海の底へと消えて行った。
壇ノ浦で平家を破った直後、頼朝のもとに戦(いくさ)奉行(ぶぎょう)の梶原(かじわら)景時(かげとき)から書状が届く。「義経が軍の規律を乱し、手柄を自分一人のものと考えている」との内容であった。頼朝は、義経の命令には従わないように全軍に指示した。数日後、この報せは京にいる義経のもとに届くが、義経は捕虜を連れ鎌倉へとむかう。ところが、ひと月後。鎌倉の手前 腰越(こしごえ)に着いた時。義経は頼朝から鎌倉に一歩も入ってはいけない命令を受ける。悲嘆(ひたん)にくれた義経は、思いあまってその心情を手紙に書き、兄に送った。「腰越状(こしごえじょう)」である。弟から兄へ。忠誠(ちゅうせい)を記した内容であった。しかし、待てども待てども、頼朝からの返事は届かず。2週間後、義経は悲嘆を胸に、京へ引き返すことを決めた。さらに、京に戻った義経は、頼朝により所領(しょりょう)24カ所を没収され、収入までも断たれてしまう。そして、この兄弟間のすれ違いに注目した人物がいた。後白河法皇である。頼朝の力が突出することに不安を覚えた後白河は、義経を御所(ごしょ)に呼び寄せ、「伊予守(いよのかみ)」に任命。さらに、頼朝に敵対していた叔父の行家(ゆきいえ)と義経を結びつけ、兄弟の対立に油を注いだ。この事を知った頼朝はついに義経を討つため、上洛の途(と)につく。一方、義経も頼朝を迎え撃つため、挙兵。とうとう兄弟は、殺しあいをはじめる。が、この対決、戦わずして既に勝敗が決まっていた。武家の棟梁(とうりょう)である頼朝に逆らう者などすでになく。義経に味方をする者が現れなかったのだ。結局義経は、軍備再編(ぐんびさいへん)のため、一度九州へ逃れようとするも。九州行きの船が嵐のため難破(なんぱ)。義経は自ら命を絶ち、その短い人生を終えた。幕府設立のため、義経を利用したことがある。頼朝は、逃げた義経を捕らえる名目で、朝廷の認可を得て、守護・地頭を設立。これにより、全国各地に頼朝の配下が置かれ、鎌倉幕府の土台が築かれた。
義経の死からひと月半。その首は頼朝のいる鎌倉へと運ばれていた。しかし、死してもなお弟の罪を許さなかった頼朝は、義経の首を鎌倉に入れることを禁じ、この腰越(こしごえ)で家臣に首実検(くびじっけん)をさせた。建久(けんきゅう)3年。頼朝はついに念願であった武家政権「鎌倉幕府」を創設。以後、700年余り続く、武士の時代の開拓者として、頼朝の名は歴史に刻まれた。一方。時代の流れに翻弄(ほんろう)された悲運のヒーロー義経の生き様は、その後講談や小説の題材となり、多くのファンを生んだ。頼朝は歴史を作り、義経は伝説をつくったのだった…
公人としての非情さというものは、ある意味ドラマ的にはクールすぎるところがあります。今回は(血液型が)B型的な義経よりも、(おそらく)A型かO型の源頼朝に、人物的にここまでクールに生きられたのか、ということで興味をもちました。というわけで今回は・・・源頼朝!