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21世紀に迎えるにあたり朝日新聞は優れた日本人科学者を選ぶ投票を行った。そのベスト5の内三人は、明治から昭和に活躍した近代の人物が選ばれた。そして、三位と四位になったのが江戸時代に生きたこの二人。日本初の発電機「エレキテル」を作った平賀源内と「解体新書」を出版し日本の医学の進歩に貢献した杉田玄白である。源内は他にも戯作本を書き、鉱山開発の実業家としても活躍。宣伝マンとして、土用の丑の日にウナギを食べる風習を作り出す。玄白が書き上げたのは『蘭学事始』である。玄白はその中で、源内を生まれながらの天才と呼び、彼の示唆で翻訳した『解体新書』が日本に蘭学の道を切り開いて行く様子を記した。果たして、二人は如何なる方法で日本を近代化へ導く扉を開いたのか。そこには天才科学者たちの知られざる友情と葛藤のドラマがあった。
杉田玄白は「蘭学事始」の冒頭にこう書いている。『近頃、世間では蘭学が流行っている。志ある人は熱心に勉強し無学な人でさえ蘭学は凄いものだと感心している。しかし、その始まりを振り返えると、友人ニ、三人とふと思い立ちやりだしたことで五十年も前のことだ』50年前と云えば1754年、玄白は22歳。福井小浜藩の藩医を務めながら江戸の日本橋に町医者を開業した頃である。この同じ年、京都の医者山脇東洋が日本で最初の人体解剖を実施。しかし、玄白にとってそれは遠い出来事でしかなかった。一方、平賀源内は5歳年上の27歳。四国の高松藩で御蔵番役(おくらばんやく)という官吏(かんり)を務めていた。幼い頃から天才と呼ばれ、12歳の時「おみき天神」と言う、お酒を供えると天神様の顔が赤く変わるからくり掛け軸を発明。25歳の時に藩主に長崎行きを命じられ本草学(ほんぞうがく)、医学を学び、西洋画の陰影法や遠近法を研究。藩も将来を期待していた。ところが、帰国するや役職を返上。妹(いもうと)婿(むこ)に家督を譲り、長崎で目にした和蘭(おらんだ)製の量(りょう)程器(ていき)や水平器の製作に挑戦。自らの工夫で完成させると、29歳の時に田舎は退屈だと江戸へ出奔してしまう。源内は、その時の気持ちをこう振り返っている。『浪人の気楽さは、一杯の飯と少しの酒以外に財産がない代わりにうるさい主人もなく、自分の体を自由に出来ることだ』幕府の財政は悪化の一途を辿っていた。年貢による収入だけで膨れ上った武士階級を賄いきなくなっていたのである。そこで時の実力者田沼意次が目をつけたのが商人たちの売り上げから税金を取る運上・冥加金である。この方法だと経済が活性化し、売り上げが伸びれば幕府の税収も増えることから株仲間など商人たちの優遇政策も同時に施行。「重商主義」と言われる政策によって町には新しい商品や外国の珍しいものが溢れるようになっていたのである。そして、1757年。湯島で日本最初の見本市第一回薬品会(やくひんえ)が開かれる。「出品者は21人で180品目。成功とは言えませんでした。でも源内は諦めず毎年開催して成功の方法を探ったんです」五年後の第五回薬品会開催に当り源内はそれまでにない奇抜なアイデアで一気に出展品目と来場者の増大に成功する。これにより出展数が1300品目と一気に増加し、薬品会は大成功。平賀源内の名を田沼意次も知るところとなる。玄白は、『蘭学事始』に出会って間もない頃の源内についてこう書いている。『平賀源内という浪人者は、本職は本草(ほんぞう)家であるが、生まれつき物の理を悟ることが早く、才人で時代の風を読むことに長けた人物である』源内が始めた薬品会(やくひんえ)は第五回を持って終了するが、それを真似た見本市は、その後、京都や大阪などでも行われるようになる。
東京都中央区日本橋。ここにかつて「長崎屋」という宿があった。そこは、長崎の出島にあるオランダ商館の館長たちの定宿で「江戸の出島」とも言われた。ここに毎春、オランダ人一行が来ると交流を求めた学者や知識人が集まって来た。その中で、オランダ人に一目を置かれていた人物がいる。平賀源内である。ある時、源内たちはオランダ人が数十年かかり作り出したという温度計を見せられる。誰もがその不思議さに目を見張る中、源内はたちどころに原理を見ぬき、後日、温度計を作ってみせたのである。一方、杉田玄白のエピソードは冴えない。同行の日本人通訳にオランダ語を学びたいと相談したところ、「無理だ」と言われ、諦めてしまったというである。「その時の私は、何クソ見返してやるぞという気もなく、源内と自分は違うんだと妙に納得しましてね」ところが、玄白39歳の時、大きな転機が訪れる。それは長崎屋で見せられたオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」との出会いである玄白はその時の驚きを「蘭学事始」にこう記している。源内は田沼意次の依頼で長崎に行き、オランダの薬草の本を翻訳しようとして失敗していたのである。それから間もなく玄白の気持ちを大きく変える出来事が起きる。それが、千寿骨ヶ原(せんじゅこつがはら)で行われた人体解剖の立ち合いである。参加者は、中川淳庵や前野良沢ら医師仲間数名。『ターヘル・アナトミア』を手に立ち合った玄白は、その内臓図の正確さに驚くと共に、それまで信じて治療に使っていた中国医学の内臓の位置や形が出鱈目だったことに愕然とする。そして、玄白が帰り道、淳庵と良沢に『ターヘル・アナトミア』の翻訳を持ちかけたところ、二人は直ぐに賛同。翌日から作業に取り掛かる。さらに玄白たちは、今も使われる新しい言葉も生み出している。そして1774年、翻訳を始めて3年後。玄白たちは『解体新書』を発行。蘭学という新しい学問の扉を開いたのである。「蘭学事始」の中にある言葉に玄白たちは悩み、そして、解決できた時の喜びが書かれている。三人を悩ませたのは「フルヘッへンド」という言葉。『ターヘル・アナトミア』では、鼻の項目に「鼻はフルヘッヘンド」と書かれ、別の本では「庭のゴミを集めるとフルヘッヘンドになる」。「フルヘッヘンド」=「うずたかい」という使われ方をしていた。
玄白が解体新書の翻訳に没頭していた頃、平賀源内を虜にしていたものがある。鉱山開発である。ちょうどその頃、老中田沼意次は、経済政策の一環で鉱山開発を奨励していた。秩父の山に入った源内はそこで金の鉱脈を発見。鉱山師という新しい肩書を得る。この評判に秋田藩から銅山開発の仕事の依頼が届くと源内は二つ返事で引き受ける。以後、源内は自らを「山師」と呼ぶほど鉱山開発に熱中するが、実はそこにはある思いが秘められていた。しかし、秋田での銅の採掘は思ったほどの成果がなく、秩父の鉱山開発にも失敗。失意の中、江戸に戻った源内が目にしたのは、「解体新書」の刊行で一躍時の人となった杉田玄白の姿だった。「解体新書」の翻訳をやり遂げたことで人間的にも大きく成った玄白を源内は戯曲の中で取り上げ名医として褒め讃えた。そして2年後、源内は起死回生の一品を発表。玄白と世間を驚かせる。それが日本最初の発電機エレキテルである。ハンドルを回すと摩擦により電気が発生するその機械は、オランダ人が日本に持ち込み壊れていた物を源内が復元に成功したのである。「異国では病気の治療に使っている」と得意の宣伝を展開。大商人や武家を相手に実演し評判を取ると見世物小屋で公開。連日、大勢の人間が詰めかけた。しかし、小さな花火が出るくらいの電力の上に、何の治療に効くのはわからないエレキテルのブームは長くは続かなかった。そして一年後の1779年、驚くべき知らせが玄白の下に届いた。源内が人殺しをし、牢屋に入ったというのだ。伝馬(でんま)町(ちょう)の牢につながれた源内は、一月後、破傷風にかかりあっけなく死んでしまう。一体、何が源内を狂気に走らせたのだろうか?長年、源内を研究してきた芳賀先生は、西洋のような博物学をまとめた本を作りたいという夢への焦りが源内の死を早めたのではないかと推測する。芳賀先生「それを実現するために俺は動いていたはずなのに、どうも一歩一歩進むうちになんだか違う方向に来ちゃったなと。元に戻そうにもまたお金がかかる。そのためにはアルバイトをする。だんだん身をすり減らして行く。最後に一種のあせり焦燥感、どうも上手くいかないという。そういう気持ちが募って行くんでしょうね。最後にああいう事件を起こす」1779年12月18日。時代の先を行き過ぎた天才平賀源内は、52歳で亡くなった。一方、杉田玄白は天真楼(てんしんろう)という医学塾を開き後進の育成と蘭学の普及に尽力する。そして、1805年、幕府は正式に蘭学を認め、蛮書和(ばんしょわ)解(げ)御用(ごよう)という外国の書物を翻訳する部署を設置。玄白の弟子の大槻玄沢を翻訳官に任命する。その玄沢の願いで書き始めたのが「蘭学事始」である。玄白は、その最後の章にこう書いた。「蘭学は今や全国に広まり、蘭書を翻訳したものが毎年出版される様を見ると、私は喜びもし、驚きもしている」。そして、本を書き上げた2年後の1817年4月17日。85歳で亡くなった。
杉田玄白は、平賀源内の一周忌に追悼の碑文を書いている。『ああ非常の人、非常の事を好み、行(おこない)もこれ非常、何ぞ非常に死するや』型破りの才能と生き方で、はからずも非常の死を迎えた源内。碑文にはその死を惜しむ玄白の気持ちが現れている。そして、この非常なる男平賀源内とその背中を見ながら生きた杉田玄白。二人が蘭学の扉を開いたことで日本人は世界を知るようになり、やがて明治という新しい時代の幕を開けることになる。
これは天才と努力家の対決ですよね?わたしのあこがれるタイプは「努力家」なんです。
わたしは血液型がB型で、すぐ飽きちゃうタイプで、平賀源内の気持ちがすごくよくわかるんです!
でもわたしに持っていない素質をもっている・・・杉田玄白!