#41 「幕府反乱」 2013年7月17日放送

#41「大塩平八郎 VS 水野忠邦」

画像

明治維新の30年以上前。ひとりの男が起こした乱がありました。
それは当時、幕府が絶対的な権力と誰もが考えていた中で、その政治に異議を唱え、乱を起こしその身をもって行動する。その乱はやがて、吉田松陰や西郷隆盛などへ引き継がれ、維新の先駆けとなった男、大塩平八郎。幕府老中、水野忠邦との対決の中に何があったのか?今回は「大塩平八郎の乱」の真相に迫ります!!

画像

「知行合一」正義を体現する男!

1793年、大塩平八郎は大阪に生まれました。先祖は家康の家臣として仕え、その功績から代々200年以上、大阪町奉行所の与力職を勤めてきた。正義感に燃える平八郎は25歳で与力となり数々の手柄を挙げました。しかし、庶民からの人気を得るも奉行所内の不正まで正していく平八郎に役人仲間から圧力がかかるのでした。
与力を辞めた後、彼の信条とする「陽明学」を伝える洗心洞という塾を開きました。陽明学の精神は「知行合一」。つまり知識と行動の一致。彼の人生はまさに行動と実践だったのです。

民を救うのは誰か・・平八郎、怒りの決心!

平八郎が「洗心洞」を開いたそのころ天保の大飢饉が深刻化しました。大阪の町では毎日多くの民衆が飢餓による死者を出していました。それに対し、幕府は民衆の救済どころか、将軍の式典にと米を江戸に送る始末。平八郎は奉行所に意見書を提出。しかし、町奉行の跡部は全く取り合わなかった。跡部の実の兄こそ老中水野忠邦。平八郎の敵はあまりにも巨大だったのです。しかし、それに屈する平八郎ではありませんでした。知識とは実践、飢饉を前にしても無策の幕府に対し乱の決行をきめるのでした。

大塩死すとも、精神は死せず!

平八郎の平等や実践を重んじる「陽明学」に対して、幕府が権威の裏付けに採用していたのが身分秩序、君主への忠誠を善とする「朱子学」でした。この学問の対立こそが背景にあったのです。
1837年2月19日、ついに平八郎は立ち上がりました。洗心洞の門弟や庶民も巻き込み総勢300人を超える群集が集いました。島原の乱以来200年ぶりの決起。これに対して幕府は大きく動揺しました。幕府は2000もの兵を送り込み鎮圧。平八郎は後包囲され自ら爆死を遂げたのでした。無残にも平八郎の意志は散っていたかに思われました・・・。
平八郎死後、日本各地で一揆や打ちこわしが多発。幕府の権威は失墜。
当然の権威であった幕府に、民衆の意思を「実践」ももって示す。その発想は西郷隆盛ら維新の志士たちへ多大な影響を与えたのです。そこにはまぎれもなく平八郎の意志が引き継がれてたのでした。

高橋英樹の軍配は…

難しいですねぇ、水野忠邦もつらい立場だし。
ただ大塩平八郎が起こした乱、始まって8時間で負ける反乱はというのは計画性のないものでしたが、それが30年を経て明治維新への大きなうねりになったことを考えると・・・大塩平八郎!