#40 「幕末漂流民」 2013年7月10日放送

#40「ジョン万次郎 VS 大黒屋光太夫」

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開国物語

江戸という時代を航海する巨大な船徳川丸。その舵取りこそ、幕府の政務を司る最高決定機関、老中の役目に他ならない。25歳という若さでその座に就いた男がいた。阿部正弘。
末は老中筆頭を約束されたエリートの中のエリート。しかし、阿部が幕府を任されて10年。長きに渡り穏やかな航海を続けてきた徳川丸に、最大の荒波が襲いかかる。ペリー来航。浦賀に突如現れた4艘の黒船が国中に激震を走らせた。歴代の名だたる老中たちしかしそこにも手本は見当たらない。その答えを導き出そうとする阿部の頭の中に、二人の男の姿が浮かび上がる。天明2年、船頭として乗っていた船、神昌丸が遠州灘で暴風雨に遭いはるかロシアへ。遭難から10年後、苦難の末に日本に戻ってきた男がいた。大黒屋光太夫である。大黒屋光太夫帰国からちょうど半世紀後の天保12年。宇佐浦から漁に出たはえ縄船が嵐に遭い漂流し、14歳の少年が一人アメリカへ。10年後、欧米の文明を吸収し帰ってきた。男の名はジョン万次郎。ペリー来航のわずか2年前のことである。鎖国の向こう側を見た二人の男。万次郎と光太夫。その人生に迫ると、江戸幕府老中たちの開国物語の真実が見えてくる。

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大黒屋光太夫

江戸時代、「おろしや」と呼ばれていたロシアに流れ着き、苦難の末に帰国した大黒屋光太夫。その陳述を蘭学者桂川甫周らが聞き取った北槎聞略という記録が残されている。事の起こりは、天明二年師走。大黒屋光太夫は伊勢国白子の廻船問屋一見諫右衛門に、沖船頭として雇われ15名の船員らとともに総勢17名で神昌丸に乗船。港から江戸へ紀州藩の囲米を運ぶ途中、駿河沖で暴風雨に遭った。田沼意次は、悪化する幕府の財政赤字を食い止めるために、それまでの米に頼った財政を見直し、貨幣に重点を置いた政策に転換。しかしその一方、田沼の政策は賄賂政治をはびこらせたと反発も招いた。水も食料も失いただ漂うばかり光太夫らが死の恐怖とともに海を漂っていたころ、田沼が徳川幕府、そして光太夫達の運命を変えるかもしれぬ動きをしていた。蝦夷地の開拓である。しかし、田沼の改革は途中で挫折する。浅間山の大噴火と、それに次ぐ天明の大飢饉が起きたからだ。田沼失脚後、代わって権力を手にしたのは、この後寛政の改革を断行する松平定信。定信は老中首座となり、蝦夷地開発を早々に中止。蝦夷地の天領化と北方警備を固めるのだった。光太夫らはロシアの政府に帰国を訴えるために、カムチャツカからオホーツクへと渡った。しかし日本とはけた違いの、あまりの寒さの中で次々と病に罹り17名いた一行の数はすでに6名に。苦難の道はさらに続く。零下50度にも達するシベリアを進み、ヤクーツクからイルクーツクへ。中には凍傷で足を切断した者さえいた。極寒の地獄絵図だった。しかし、一つの出会いが彼らの運命を好転させる。その人物こそが博物学者ラクスマンであった。彼は、手助けを申し出た。ラクスマンは、光太夫らを首都ペテルブルグへと連れて行く。女王エカテリーナ2世に直訴するためである。1791年夏、女王エカテリーナ2世が避暑のためにツワルスコエ・セロの別宮にいる事を知ったラクスマンは光太夫とわざわざその地を訪れ、高官を通じ光太夫の嘆願書を女王に届けることに成功。そして、エカテリーナ2世の即位記念日。ついに、女王に謁見できる日が訪れたのだった。女王からこれまでの道のりを尋ねられると、光太夫は緊張しながらもかの地で習い覚えたロシア語で語り始めた。日本を出た時にいた17名がどんな運命をたどったか、残った者たちがどれほど帰国を望んでいるか。それを聞いた女王は一言「ベンヤシコ」、かの地の言葉で「哀れな者よ」と漏らし、その頬に涙がつたった。数か月後、ついに帰国を許された。

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歴史の裏舞台へ消えていく光太夫・・・そして50年後

女王エカテリーナから帰国の許しを得た大黒屋光太夫は、ペテルブルグから再びシベリアを横断。オホーツクへとたどり着き、寛政4年エカテリーナ号に乗り日本を目指した。
光太夫一行は、9月に根室に到着。およそ10年ぶりの帰国。神昌丸で出航した17名のうち、根室に戻ってきたのは沖船頭、大黒屋光太夫、船員磯吉、小市のわずか3名。そのうち小市も根室で病死。光太夫と磯吉、二人だけが無事な姿で帰国をはたせた。エカテリーナ号には、もう一人の男が乗っていた。それは、恩人キリルラクスマンの息子、アダムラクスマンだった。漂流民を日本に返還するのと交換に日本との交易を望む使節団としてやって来た。一方、迎え撃つ老中松平定信は、通商条約締結の交渉のため長崎への入港許可を与えることでなんとかラクスマンを一時帰国させる。ロシアの進出に、危機感を感じた定信は、引き延ばし工作を画策するが、将軍家斉と対立し老中職を罷免されてしまう。光太夫と磯吉は、江戸城にて将軍家斉に引見されるも、それはあくまで儀礼的なものであった。二人の貴重な経験は幕府首脳に何らかえりみられず、歴史の裏舞台へ消えていく。光太夫の折角の見聞をその後、定信公は全く生かせなかった。それから50年、もうひとりの漂流者が帰ってきた。天保12年、宇佐浦からカツオ漁に出た船が嵐に遭い漂流。一週間ほど漂流したのち、太平洋の鳥島という無人島に漂着した。その中に、14歳の若き漁師がいた。のちのジョン万次郎である。万次郎らは、飢えをしのぎながらの無人島生活を140日あまり続ける。すると、ある日一隻の大型船が島に近づいてきた。アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号であった。万次郎らは仲間とともに命を救われる。彼の運命を変えたのは捕鯨船の船長ホイットフィールドであった。ホイットフィールドは万次郎の素直さと、機転がきく行動に感心し、彼をアメリカに連れて行く。万次郎はハワイで仲間と別れると、捕鯨船の仕事の手伝いを始める。そして乗組員たちから付けられたニックネームが「ジョンマン」だった。万次郎を乗せた捕鯨船はついに1843年マサチューセッツ州ニューベッドフォード港へ。アメリカ大陸に上陸を果たしたのだ。万次郎がアメリカに着いたのは、ちょうど前任者水野忠邦殿の天保の改革の時期。その頃にすでに太平洋を渡っていた。アメリカではホイットフィールド船長が親代わりとなり、万次郎は小学校に通い始める。熱心に勉強をし、数学や航海術、測量術が学べる私立学校へと進学すると、万次郎はクラスの主席にまでなった。

ジョン万次郎

万次郎がアメリカ国より戻ってきたのは嘉永四年。光太夫と同じく10年の海外暮らしを体験した。長きに渡るアメリカでの生活で募る望郷の念。だが、帰国を願った万次郎の目的は帰郷だけではなかった。ホイットフィールド船長たちが望む捕鯨船が憩える基地を、日本に置くのを幕府に訴えることであった。万次郎は捕鯨船から陸に上がると、ゴールドラッシュに沸く西海岸へ向かう。帰国の資金を貯めるために金の採掘を始めたのだ。すると、見事に掘り当て十分な金を手に。はじめて乗客として船に乗り込むこととなった。嘉永4年2月。ついに日本への帰国を果たしたのだ。すべての取り調べが終わると、万次郎はようやく故郷中濱村へ。息子の帰りを待ちわびていた母と再会できたのは帰国してから1年半後、漂流してから11年の月日が経っていた。土佐藩では、漁民から最下級の武士に取り立てられた万次郎。しかし人生を揺るがす出来事が再び起きる。それが、阿部正弘が、老中首座 在位時に海の向こうからやってきたペリーの来航である。ペリーの艦隊が浦賀を去ると、そのわずか八日後。万次郎に江戸への出府命令が下った。老中阿部正弘は、万次郎を招くとアメリカの情報に熱心に耳を傾けたのだった。万次郎はアメリカ国には、プレジデントと呼ばれる大統領がいること、その職が国中の民による選挙で選ばれることなど、アメリカの社会と文明がいかに進んでいるかを説明。さらに、鎖国を解き、まずは捕鯨船が寄港できる港を開くことを進言した。自分をアメリカへ連れて行ってくれたホイットフィールド船長や捕鯨仲間の恩に報おうと訴えたのだ。安政元年、ペリー艦隊が再び来航。万次郎の進言を受けた阿部正弘老中のもと、日米和親条約が締結された。幕末、多くの人物がジョン万次郎の影響を受けた。勝海舟、榎本武揚、福沢諭吉。その中に坂本龍馬もいる。龍馬は22歳の時、ジョン万次郎の聞き取りを記した河田小龍のもとを訪ね、万次郎が見聞きしたアメリカ社会の話に聞き入った。そしてそのことが、あるプランを考えつくヒントになったといわれている。万次郎の話をヒントに龍馬が考えたついたことは何か?それは船中八策である。その多くに小龍経由の万次郎の影響があるといわれている。

大航海を経た二人は・・・

享和2年、帰国から10年後ようやく帰郷が叶った大黒屋光太夫には、どうしても果たさねばならないことがあった。自分を沖船頭にしてくれた船主一見諫右衛門に一言詫びをしたかったのだ。船出の日から二十年、年を老い病に伏せる諫右衛門に会うと、光太夫は手を付き、頭を深くさげた。諫右衛門は一言、「よくもどってきた」。光太夫の20年に及ぶ航海はこのときにようやく終りを告げた。幕末、万延元年、ジョン万次郎は咸臨丸に通訳として乗り込み再びアメリカへ。明治になると、1870年、またも太平洋へ。一行はアメリカ経由でロンドンに向かったが、その際、ニューヨークで船待ちの時間が数日あった。万次郎はこの時間を利用し、汽車である人物のもとを訪ねた。ホイットフィールド船長のあの懐かしい家であった。これがジョン万次郎のアメリカへの最後の航海となった。

高橋英樹の軍配は…

現実的に「開国」という、世界に場を広げたという点、時代的にも環境的にもやはり今の日本の貿易や外交の源に、この人はなっているな、ということで・・・ジョン万次郎!でも万次郎の行った先はアメリカ、気候的にもゆるい国ですよ。対する光太夫の行ったロシアはもう厳しい土地!ハワイから帰ってきたっていう万次郎とイルクーツクから帰ってきた光太夫、厳しい経験は光太夫の方が凄かったでしょうね。義とかチャレンジ精神とかって言うけど、やっぱり終局的には・・・体力だね!