毎週水曜 よる10時放送
明治36年11月21日から始まった歴史あるライバル対決『早慶戦』。今回のライバルはそれぞれの大学の創始者、福澤諭吉と大隈重信です。実は、福澤と大隈は最初犬猿の仲だったという。なぜ二人は大学を築きあげ、そして100年以上続く早慶戦というライバル関係誕生に秘められた真実とは・・・!? 近代日本を築き上げた二人の巨人の、知れざるライバル物語に迫ります。
嘉永6年、浦賀にペリーの黒船が来航。当時、福澤19歳、大隈15歳。福澤の生まれた中津は、個人の能力にかかわらず、家柄によって人生が決められてしまう身分制度の色濃く残る地域でした。そんな社会に憤りを感じていた青年福澤は、自由を求め藩を飛び出します。そして出会ったのが蘭学でした。福澤は学問の重要性に気がついていきます。一方大隈は佐賀藩の長男として生まれる。当時の佐賀藩は開明的な藩主・鍋島直正のもと西洋の文物を柔軟に取り入れていました。そして大隈も、藩校・弘道館で蘭学を学び、 より広い世界に目を向けるようになっていきます。
当時、日本の政治家たちは西洋文化を学ぶために使節団として欧米をめぐっていました。 しかし、福澤はすでに10年前にアメリカへ渡り西洋の文化を取り入れていたのです。「うわべだけ西洋のまねをしても意味はない・・・国民の意識を変えなければ・・・!」そこで生まれたのが、「学問のすゝめ」でした。福澤は慶應義塾での教育活動の傍ら、 著作活動で広く人々を啓蒙しようとしていたのです。その一方大隈は政府の留守を預かっていた。「外国に行かずともやるべきことがある!」大隈は鉄道の開設や地租改正など日本が近代国家となる基盤を作り上げていきます。
明治新政府首脳たちの一歩先を行くかたちで、華々しい活躍を始めた福澤と大隈。 しかし、意外なことに両者は未だ顔を合わせたことがなかった。しかも、福澤は大隈を 「生意気な政治家だ」といい、大隈は福澤を大隈「お高くとまった学者が!」といって、互いに顔を合わせることさえ避けていた。そんな福澤と大隈が初めて会ったのは、 明治6、7年頃のことだったといわれる。共通の知り合いであった雑誌編集者が、 福澤と大隈に内緒で、一席を設けたのである。何も知らされずにやってきた福澤と大隈。 どうなるかと周囲が固唾を呑んで見守る中、二人はなんと、意外にも意気投合。 そのとき福澤の言った一言によって大隈は現在の早稲田大学が作られたのではと言われております。
いやあもう、どちらかを選べってこの番組は理不尽です!
ライバル奉行として選ぶ…選ばさせていただくとすれば…うーん。
ただ、いま私が一番お世話になっている人、この人に一番お世話になっているかなあと思うんです。
一万円札の・・・福澤諭吉!
福澤先生、今後ともどうぞたくさんお友達を連れて、ウチに遊びにきてください!
明治大学出身の私にとって、いつも頭の上でライバル同士戦っているという感じがあった、早稲田大学と慶応大学。そのルーツを辿るのはとても興味深かったです。自分たちが学んできた物を教育と言う形で伝えていこうと言う2人の想いの恩恵を、今の私たちが受けているのだなと、歴史と現代の接点を感じた気がします。