毎週水曜 よる10時放送
群雄割拠の戦国時代、奥州から天下取りに野心を燃す「独眼竜」伊達政宗。対するは、越後の龍・上杉謙信の「義」を受け継いだ2代目、上杉景勝のお話。信長、秀吉、家康との争いを戦い抜いた伊達政宗と上杉景勝。伊達政宗は、養育係の片倉小十郎に疱瘡で垂れ下がった右目の眼球を切り取られることによって、強い絆を生涯にわたって結んだ。政宗が、最大の危機に見舞われた秀吉からの小田原参陣。参陣すれば、そのまま秀吉の傘下に入るということ。政宗は悩みに悩んだ。この危機を救ったのが、政宗の右目と言われた片倉小十郎だった。一方、上杉景勝は、直江兼続と幼い時からまるで兄弟のように過ごした。上杉謙信が亡くなった際には、謙信の甥の上杉景勝と北条家から養子としてきていた景虎との間に家督争いが勃発。越後が真っ二つに割れた。そして、天下分け目の関ヶ原では家康を追いつめる最大のチャンスが訪れる。天下人秀吉は、何よりも参謀の2人を欲しがった。政宗と景勝。どっちが大名として上か?その答えは家臣を見れば分かる!両者の名参謀対決が始まる!
天正6年。上杉謙信が倒れた時、跡継ぎには2人の候補がいた。一人は謙信の甥の景勝と北条家の景虎。謙信はどちらに家督を継がせるのか明言していなかった。昏睡した謙信の傍らにいたのは直江兼続であった。謙信はそのまま息を引き取る。兼続は、一瞬目覚めた謙信が、「跡継ぎは景勝に」と遺言を託されたと主張。景虎派は、この遺言に反発。兼続は、主君景勝に家督を継がせ上杉家を守ると断言。兼続の使命だったのだ。それ以来、景勝は自分を取り立ててくれた兼続に全幅の信頼を置くようになる。天正10年。信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が天下統一へ弾みをつけた。秀吉は、越後を統一した景勝に和睦を持ちかけた。落水城にて、景勝と兼続、秀吉と石田三成が会見。景勝はこの時、秀吉と結ぶ意思をはっきりと固めた。人を見抜く天才だった秀吉は、兼続の交渉力を認め、天下の政治を任せられると称えた。そして、豊臣の姓まで与え、我が家臣にと兼続を熱望した。しかし兼続は断る。一方、政宗は、18歳にして伊達家当主となった。そして事件が起こる。二本松城主、畠山義継が政宗の父を拉致して殺害。政宗は仇をとるべく兵を挙げた。ところが、周辺の武将たちが連合軍を結成して伊達軍に対抗してきた。連合軍3万に対し、伊達軍はわずか8千。本陣では政宗が自ら槍を手にして奮戦したが、力及ばず絶体絶命の危機に陥いる。そして、小十郎が驚くべき行動をとった。自らが政宗を演じ、本物の政宗を退却させた。政宗と小十郎が率いる伊達軍は快進撃を続けて行く。政宗は、奥州制覇の野望を目の前に引き寄せた。関東の北条、東海の家康、そして秀吉にまで政宗の名は届いた。北国では、上杉景勝が伊達政宗の名を胸に刻んでいた。しかし、天下統一を目前にした秀吉から、小田原攻めに参陣すべしとの命が政宗のもとに届いた。政宗は運命の時が来た事を覚悟した。小田原攻めに加わる腹を決めた。しかし、小田原に到着したのは、約束した日から1ヶ月も過ぎてであった。案の定、秀吉はおかんむりで、政宗到着の知らせを聞いてもすぐに会おうとしなかった。もはや政宗は切腹を覚悟しなければならない所まで追い詰められた。秀吉との謁見の時が訪れる。政宗の姿に居並ぶ一同は皆仰天。政宗は白の死装束に、マゲを切ったざんばら髪の出で立ちだった。死を覚悟した殊勝な態度。小十郎の秘策だった。芝居がかった演出が好きな秀吉の性格を計算した上でひねり出したものである。のちに秀吉は、小十郎に家臣になるように言うが、自分の主君は正宗しかいないと断る。
慶長3年、秀吉が死去。家康は伊達家と婚姻関係を結ぶなど、不穏な動きを始めた。そんな中、景勝にも謀反の濡れ衣が着せられる。「上杉家は謙信公以来、律儀と武門を誇る家。武門の家として軍備に力を入れたことを謀反とされたのでは、上杉の誇りと伝統に傷がつく」景勝は、家康との決別を決意し、兼続に書状を書かせる。兼続は果たし状ともとれる書状を家康に送り付けた。「直江状」と呼ばれた。痛烈に批判された家康は激怒。上杉に兵を挙げた。しかし、景勝はこのことを予測し、兼続にあることを命じていた。兼続が家康を東におびき寄せ、三成が後方から挟み撃ちにする計画を認め、景勝は家康を討ち取る覚悟を決めていたのだ。慶長5年6月。家康は大坂城を出発、北上して上杉を目指した。しかし、突然その動きは止まる。7月、三成が決起し、上方の本拠地伏見城を落城。知らせを受けた家康は、すぐに引き返した。家康を挟み撃ちにするまさに千載一遇のチャンス。兼続は、ただちに家康を追うよう景勝に直訴。しかし、景勝は首を縦に振らなかった。敵の後ろを追うのは武士の名折れ、上杉の家訓である「義」に背き、謙信公に顔向け出来ないという理由だった。兼続も主君の命にだけは背けなかった。上杉軍は長谷堂合戦で、家康についた隣国最上義光と戦った。窮地に追い込まれた義光は、甥である政宗に救援を頼んできた。政宗は迷った。しかし政宗は最上に援軍を送った。そこには母がいた。伊達最上の連合軍は、上杉軍の攻撃にかかった。ところが、合戦のさなか、思わぬ知らせが上杉軍に届いた。関ヶ原の石田三成がわずか1日で敗れてしまったのだ。上杉家は最大の危機を迎えた。しかし、兼続は上杉のためにある手を打っていた。なんと、兼続は上杉家を残すために、敵である徳川家の側近とも交流を深めていた。徳川の側近を味方につけ、危機に備えていた。家康に石高を減らされるも上杉家は取り潰しを免れた。家臣たちは離れなかった。景勝は、何よりの上杉家の誇りであったのだ。
家康によって天下は統一された。政宗は天下人への飛躍のチャンスを逃してしまった。関ヶ原の戦い後の1602年。政宗は小十郎を白石1万3千石の領主に任命している。白石は伊達領の最南端に位置する要衝の地。それだけ重要な領地を任されたわけだから、政宗の小十郎に対する信頼の厚さがわかる。ある日、景勝は、米沢に暮らす小十郎の兄・景広の死を知り兼続を呼んだ。「伊達殿は元気かのう・・・小十郎という家臣がおったが、兄が死んだそうじゃ。手紙を書いて知らせるがよい」小十郎は、景勝の心遣いに温かなものを感じた。これが縁で、伊達家と上杉家の距離は一気に縮まって行く。早速、小十郎は墓参りに米沢へ出かけた。片倉家の墓のそばまでくると兼続がいた。そして墓参りを終えた2人はそれぞれの主君の思いを語った。「領民のために豊かな藩にしましょう!」2人は固い握手をかわした。1614年。政宗は家臣たちを仙台城に招集した。大坂冬の陣の始まりである。家康がいよいよ豊臣との決戦に臨むということで、伊達家でも出陣に向けた軍議を開いた。しかし、小十郎の姿はなく、代わりに小十郎の長男が出席していた。実は、もはや重要な会議に出席出来ないほどの病を悪化させていた。政宗は慌ただしく、大坂への出陣を決めたが、小十郎とは今生の別れとなる予感があったのだろうか?仙台を出陣した夜、小十郎のいる白石城を訪問した。小十郎は大坂の陣での家康の策を見事に分析。政宗に作戦を授けた。「大坂の陣では初戦は和睦になりましょう。家康は堀を埋めるなどして、攻めやすい形を作り、再決戦に挑むはずです」政宗はこれを景勝にも伝えた。小十郎の予言はずばりとあたり、景勝の率いる鉄砲隊は徳川軍を勝利へと導いた。その後、伊達家と上杉家は、2人の力があったからこそ幕末まで続いた。
伊達政宗を祀る青葉神社。ここで大切に守られている。伊達家を支え続け、不世出の武将、伊達政宗を男にした片倉小十郎。400年の時を経ても、2人の関係はいまだに続いている。一方、兼続は新田の開発を進め、その用水路確保を兼ねて氾濫防止のために河川工事を施し、多くの堤を築いた。兼続は小十郎の仙台藩を追い越して、米沢藩を天下一にという希望を持ち続けた。夢をあきらめなかったのだ。それを見届けるように、景勝は米沢城で息を引き取った。
今日は「伊達政宗&片倉小十郎」と「上杉景勝&直江兼続」の団体戦ですか?実は私は伊達政宗も片倉小十郎も演じているんですよ。となると、どうしてもいままで演じてきた人物に愛着がありますし、実は私がいま住んでいる場所、江戸時代の伊達藩の御屋敷跡地なんです。あのー・・・なので伊達さんの方が、わたしは身近に感じます。なので今回は伊達政宗で!