毎週水曜 よる10時放送
輝かしい歴史の裏には必ず陰の主役たちがいるのです。戦国の行方を決めた関ヶ原の合戦。その陰にいた二人のナンバー2。今回は石田三成と藤堂高虎の宿命のライバル対決に迫ります!!主君!宿敵!二人の運命の出会い・・・藤堂高虎は豊臣秀吉の弟、秀長の家臣として豊臣家に仕えた。それまで武芸一辺倒だった高虎は秀長と出会い、算用術や築城術を学んだ。一方の石田三成は、高虎とは正反対に体を張る「現場の労働者」ではなく、三成は頭の冴える「官僚」として秀吉に仕えた。二人の出会いは三成17歳、高虎21歳のとき。長浜城でのことだった。この出会いが、のちに壮絶な抗争へと発展し、豊臣家の運命を変えることになる。
高虎が秀長に仕えて、10年。豊臣家は、勢力を大きく拡大していた。しかし、豊臣家の二人のナンバー2の確執もまた大きくなってゆく。秀吉による九州征伐の際、総大将に、秀長が任命され島津氏へ侵攻した。高虎の命懸けの戦いで、九州征伐は成功した。島津氏から領地を没収し、豊臣家の直轄領に組み入れた。だが、島津は政治的な工作を始める。島津氏が目をつけたのは、石田三成だった。島津氏は、三成を通じて秀吉に金銀を献上。引き換えに、領地の回復を嘆願した。結局、秀吉は領地の一部を返還した。高虎は、激怒した。三成は、命懸けの戦場を知ることもなく、合戦が終わった後に、やってきて、おいしいところだけを攫っていってしまう。現場の苦労を知る高虎にとって、それが許せなかった。ここに二人の確執は決定的なものとなった。
二人のターニングポイントとなったのは、主君の死だった。秀吉、秀長を失った豊臣家。実質的な支配権は三成が握った。しかし、秀長に仕えた高虎は、豊臣家を去り、徳川家康に迎えられた。そして、関ケ原の戦いにおいて二人は敵同士となり激突する。高虎は戦に勝利したものの、主君を10人も変え、最後は豊臣家から徳川家に鞍替えしたことから、「裏切り者」や「風見鶏」と揶揄された。一方の三成は、戦に敗れはしたものの、生涯を通じて豊臣家一筋に仕えた。不利な状況に陥っても、決して寝返ることなく、忠誠心を貫き通したのだ。その姿は、まさに武士の鑑である。石田三成と藤堂高虎。真の勝者は、果たしてどちらなのだろうか?
わたしはお城が大好きなんです。それも山城ではなく石垣が大好き。藤堂高虎が作ったお城で現存しているものが日本にはまだ、たくさん残っているんです。その城を見るだけでホントに幸せだなって思うくらい、素晴らしいお城を高虎さんは作ってくれているんです。そういう意味で、今回は藤堂高虎さんで!