毎週水曜 よる10時放送
大楠公と呼ばれた楠木正成。河内の国の反対勢力だった正成は、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の呼びかけに応え挙兵。天才指揮官として、鎌倉幕府軍を翻弄。同じ時代、もう一人の名将が生まれた。足利尊氏。尊氏は鎌倉幕府を起こした源氏の棟梁。北条の執政に嫌気がさした全国の武士の期待が尊氏に集まった。後醍醐天皇の信頼を受けた悪党と、武士の長となった尊氏。二人が相対したのは、鎌倉から室町へと急激に時代が動いた時。天皇自ら政権を握ろうと目論んだ後醍醐天皇によって、二人の武将の運命は二転三転する。最後は雌雄を決する戦いに!正成の知略と、尊氏の武士の力が激突する。戦いに勝ったのは、そして歴史の中でいま光り輝いているのは果たしてどちらなのか!?
鎌倉幕府の権力は、蒙古軍の襲来「元寇」により急速に失墜していた。そんなとき、河内国に、後に武士のヒーローとなる男が生まれた。楠木正成。当時幕府は、土地を管理する荘園領主や地頭に反抗し、年貢を略奪する集団を「悪党」と呼んでいた。その悪党たちを河内一帯で束ねていたのが楠木正成。幕府からは悪党と呼ばれていたが、狭い土地を耕し暮らす地元の者からは、無慈悲な年貢の取り立てから守ってくれる者と慕われていた。幕府による政権維持に陰りが見える中、後醍醐天皇が現れる。天皇自らが政治の実権を握るという野心に燃えていた。しかし、兵を持たない天皇が戦うためには新たな兵力が必要となる。そこで目をつけたのが楠木正成だった。一方、正成誕生から約11年後、足利尊氏は鎌倉幕府の有力御家人の子に生まれた。その家系は、源氏嫡流に最も近い源姓足利氏の棟梁の家系。そして、後醍醐天皇が倒幕を掲げ、笠置山で挙兵した「笠置山の戦い」で尊氏と正成は出会う。笠置山に陣をおく後醍醐天皇に呼応して、正成は河内赤坂に城を築いた。集めた兵はなんと悪党わずか500人。これに対し幕府は、尊氏を含めた数万にも及ぶ大軍を派遣。押し寄せた幕府の大軍は笠置山の後醍醐天皇を包囲。天皇は捕らえ、隠岐へと流される。残るは赤坂城の正成。数万の敵が取り囲んだが、正成は幕府軍相手にゲリラ戦を展開。数々の奇想天外な戦術を繰り出した。壮絶に散ったと幕府側に思わせた。尊氏だけは、正成はすでに逃去ったと違う判断をする。尊氏の見抜いた通り、正成は全軍を引いていた。後醍醐天皇と正成が起こした乱は幕府側に鎮圧された。しかし、尊氏の脳裏に、楠木正成という名が強烈に刻まれたのである。
笠置山の戦いでの楠木正成の活躍は天下に広まり、各地で悪党の決起を煽った。楠木正成が再び兵を挙げる。北条勢が占領していた赤坂城を取り戻し、金剛山に千早城を築き籠もった。死んだとされていた正成の復活に幕府は驚いた。さらに、隠岐に流されていた後醍醐天皇が伯耆国の悪党、名和長年の助けを借りて島から脱出したという驚くべき事が起こった。そして、後醍醐天皇は全国の武士や悪党に倒幕の決起をあおる綸旨を大量に書き送る。一方、正成と後醍醐天皇の復活に慌てた幕府は尊氏のもとに反乱を鎮圧する総大将となるよう要請を送る。尊氏は、北条高時から頼朝公以来の源氏の白旗を預かり正成がいる千早城へ征伐に向かった。そして尊氏が丹波の国・篠村八幡宮に入った。後醍醐天皇の綸旨は、尊氏のもとにも届く。幕府を見限っていた尊氏は後醍醐天皇側と内通。尊氏は幕府に反旗を翻し、天皇軍に寝返ったのだ。正成を攻めるはずの2万5千の兵は、京都の幕府の出先機関、六波羅探題を攻め落とし、都を制圧。時を同じくして上野国では新田義貞が幕府から寝返って、鎌倉に攻め入る。そうしてここに鎌倉幕府が滅亡に至った。倒幕を果たした後醍醐天皇は新政権を樹立するために京へ凱旋。途中、正成と再会を果たした。正成は天皇の護衛という最高の名誉を与えられ、尊氏も後醍醐天皇から勲功第一とされた。後醍醐天皇のもとで二人のライバルは、晴れて仲間となったのである。1333年6月、後醍醐天皇はついに新政権を樹立。元号を「建武」と改め天皇自らが政治を行う親政をスタート。建武の新政である。しかし、この新政が、正成と尊氏の関係を再び引き離すこととなる。
建武の新政は、様々な問題を抱えていた。また天皇自ら政権運営に挑むも次第に批判が高まっていった。新政で役人となった正成も朝廷では、ねたまれる存在となった。一方、新政に不満を持つ武士が頼りにした人物が足利尊氏だった。尊氏は朝廷と距離を置いていた。また尊氏は、頼朝以降、武士の長の称号であった「征夷大将軍」の地位を望むも、後醍醐天皇はそれを与えなかった。強力な力を持った尊氏が、幕府を復活させることを怖れた。ここで波乱が起きる。独自の武家政権への動きを見せ始めた。これを謀反と見た後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じる。尊氏は瞬く間に新田を撃破。そこで正成は後醍醐天皇に足利尊氏と和睦をするべきと進言をする。しかし、天皇には受け入れられなかった。天皇をはじめ公家達は、建武の新政が崩壊の危機から免れたことに浮かれていた。翌年、正成が危惧していたことが起きる。西国の武士を集め尊氏が再び兵を挙げた。その際、後醍醐天皇と反目していた光厳上皇を担ぎ出し、新田義貞討伐という大義名分を手にしての出兵だった。戦を前に、正成は秘策を持ち出した。尊氏軍数万に対して、正成軍わずか700。天皇が京を明け渡し、そこに海からやって来る尊氏を誘い込む。そのすきに正成が尊氏の水軍を攻撃し兵糧を断つ。そして京で孤立した尊氏を叩くという、唯一無二の戦術だった。しかし、軍事を知らない公家衆に、天皇が都を出ることを反対される。ここに万策が尽きた。大阪府桜井。次の決戦で死を覚悟した正成はここ桜井で息子の正行に別れを告げたと言われている。延元元年5月、正成は残った部下と共に自決。勝利した足利尊氏は、室町幕府を開き再び武士の世を築いた。
「尊氏に渡した三種の神器は偽物。南朝こそ正朝なり」尊氏に敗れた後、吉野に逃れ南朝を開いた後醍醐天皇。しかしその後醍醐天皇も正成の死から3年後、病に倒れる。後醍醐天皇が崩御すると、慰霊のために天龍寺を建立したのは敵だった尊氏だった。鎌倉幕府を裏切り、天皇に逆らい、そうして室町幕府を開いた足利尊氏。尊氏は時代の流れ中で、武士の棟梁として役割を貫き、歴史の歯車を回したのであった。もしあの時、正成の進言を後醍醐天皇が聞き入れていたら・・・尊氏と正成が手を組んだ新しい時代が訪れ、戦国の世は訪れなったかもしれない。それはどのような世になったのだろうか。
わたしが子供時代に読み物などで知ったこの時代の武士像というのは楠木正成しかないんですよ。それくらい沁みついてるんです。でも今日の話で全部がらがらっと崩れましたけど、やっぱり「仁」「義」「礼」「智」「心」、日本人の持っているものを貫いて、そして死んでいった、しかも不幸を背負っている、そういう生きざまに、心を魅かれます。なので楠木正成!