毎週水曜 よる10時放送
1860年。今ではエンターテインメントの本場となったブロードウェーで拍手喝采を浴びた一人の侍がいた。小栗上野介。日米修好通商条約の批准書の交換のため、使節団として派遣された。国益を主張するため、アメリカ船・ポーハタン号に乗り込み、太平洋を渡った小栗は、その強大な工業力に圧倒される。その後、幕末期の日本で、製鉄所の建設など様々な近代化政策を打ち出していく。このとき、使節団の護衛船として、もう一つの船、咸臨丸がアメリカに渡っていた。この船の船長は、勝海舟。貧しい家に生まれながらも実力で這い上がってきた男。幕府に頼らないで全国から人材を集めると主張。小栗上野介とは違い、工業力よりも人材力を重要視していた。ハードウェアを充実させることを目指す小栗上野介とソフトウェアを重視する勝海舟。それから8年、鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍。江戸城に逃げ帰った時の将軍・慶喜を前に江戸幕府の一番長い日が始まった。徹底抗戦を主張する小栗上野介。新政府への恭順を訴える勝海舟。将軍・慶喜は、二人の男に人生を託したのであった。260年続いた徳川幕府の幕引きを任された二人の対決が始まった!
勝海舟は長男として生まれ、貧しさに対するやり場のない憤りのはけ口になったのが、剣術の修業だったが、蘭学を国事に役立てようと考えた勝は、蘭学と兵法学を学ぶ私塾を開く。一方、小栗上野介は旗本の子として生まれた。徳川譜代の旗本という恵まれた家に生まれた小栗は徳川幕府への忠義心を熱く抱いて育っていった。小栗は、13代将軍・徳川家定の近習という秘書的な役割に取り立てられる。その時、日本に大事件が起こる。浦賀にペリーの黒船が来航。開国を要求し、日本列島は騒ぎになった。この時小栗は、幕府首脳部の混乱を横目で見ながら、外交事務に関与することができない立場の自分にいらだちをつのらせていた。反対に、蘭学をマスターしていた勝にとっては、またとないチャンスが。アメリカの強気な姿勢に恐れをなした老中筆頭の阿部正広は、幕臣はもとより、大名から町人に至るまで意見を求めた。そして、全国から寄せられた700通もの意見書の中で、勝の書いた意見書は異彩を放っていた。勝の意見書が幕閣の目にとまり、勝は長崎海軍伝習所の入所を拝命。小十人組に昇進する。時の大老・井伊直弼は、小栗上野介を、アメリカ使節団の実質的なリーダーとなる目付役に抜擢。勝もまた、使節団の護衛として同行する咸臨丸に、軍艦頭取として抜擢。小栗上野介ら使節団を乗せたポーハタン号は、咸臨丸を追いかける形で横浜港を出港。二人は、太平洋を渡ることになった。
太平洋は日本人の想像を絶する怒涛の海であった。日本人乗組員は船酔いのため役に立たず、同乗したアメリカ水兵の手を借りるはめに。そして日本では大事件が起こる。大老・井伊直弼が暗殺される。桜田門外の変である。小栗たち使節団は、サンフランシスコに到着。初めて見る日本人への関心は高く、多くの人々が港に集まっていた。一方、勝の乗る咸臨丸は、小栗たちよりも12日早くサンフランシスコに到着。勝はアメリカで最も見たかった海軍学校へ見学へ行っていた。一方、使節団は、ワシントンに向かい、ホワイトハウスでジェームズ・ブキャナン大統領に謁見。批准書を手渡した狩衣と烏帽子という、日本の正装で現れた彼らの礼節に満ちた振舞いは、アメリカ人に大きな好感を与えた。勝は、一つの考えに思いを馳せていた。海軍学校の創設を夢に描き始めていた。小栗も一つの考えに至っていた。造船所の建設である。時を同じくしてアメリカを見た二人。しかし、その意見は対立していた。小栗は、軍艦奉行へと就任。念願の造船所建設へと動き出した。一方、勝海舟は、小栗の造船所建設に反対。海軍学校の重要性を直接幕府官僚に訴えていた。ようやく勝の要望は受け入れられ、神戸海軍操練所を設立。神戸海軍操練所と勝の私塾には全国から多くの塾生が集まる。その中には、坂本龍馬の姿も。勝は、若者たちを「海軍」の名のもとにまとめようとした。一方、小栗の説得が実を結び、時の将軍家茂が、造船所の建設を正式に認可。造船所は横須賀に建設。
家茂の突然の死。慶喜が15代将軍となった。弱体化していく幕府とは逆に、薩摩・長州が力をつける薩長は幕府を解体し、天皇を中心とした連合政府を作ろうとしていた。慶喜は朝廷に政権を返上。大政奉還はなされ、家康以来、260年続いた幕府は幕を閉じる。西郷隆盛は、天皇の名により慶喜を朝敵に追い落とす王政復古のクーデターを考える。旧幕府軍と、京都の新政府軍が対立し、戊辰戦争が勃発。錦の御旗を掲げた薩長軍に、幕府軍は大敗。江戸城総攻撃が始まろうとしていた。しかし幕府の意見は二つに分かれていた。小栗が主張する抗戦派と、勝の主張する恭順派。そして、慶喜は決断をした。小栗を呼び考えを出させる。旧幕府軍には、7艘から成る艦隊と数千人に及ぶ精兵が準備され、勝てる自信があった。だが抗戦か恭順か決めらない慶喜。小栗は執拗に慶喜に決断を迫った。執拗な行動に小栗は勘定陸軍両奉行を罷免される。さらに慶喜は苦渋の決断をする。今度は恭順を訴えていた勝は慶喜に呼び出された。小栗から勝に舵を切った慶喜。勝は徹底抗戦を訴える幕臣の意見を抑え込み、江戸の無血開城を主張。西郷に会う前に、イギリスに働きかけたのだ。西郷と二日間の交渉をする。しかし武器弾薬を購入していたイギリスからの圧力があり、西郷は同意するしかなかった。先に手を打った勝海舟の勝利。結果、勝はみごと無血開城を成し遂げた。
作家・司馬遼太郎は、小栗上野介をこう呼んでいる。「彼こそは明治国家の父である」。勝海舟と比べれば、決して知名度が高いとは言えない彼を、なぜそのように呼んだのだろうか。その答えは、この1本のネジ。アメリカに渡った若き小栗は、見学した海軍造船所に、近代化された日本の未来を思い描いていた。その証として造船所で作られたネジを土産に持ち帰っていた。そして「横須賀造船所」は、日本の軍事や産業の近代化に貢献した。一方で、江戸無血開城を成し遂げた勝海舟は幕府を最後まで見届けていた。幕府が滅んだ後も、旧幕臣の就労先や、生活保護を30年以上にわたって続けた。常に先を見続け、巧妙に立ち回ったように見える勝海舟。しかし、勝海舟は貧乏だった若かりし頃を忘れることはなかった。修業時代、1年かけて2部筆写した蘭和辞書。1部は売って生活費のために。もう1部は自分のために。勝は、その辞書のことを生涯忘れることはなかった。
弱ったなー!苦渋の選択です。 方や経済優先で、物を作って日本の礎を作った人、 方や人材優先で、人を磨いて日本を築いた人、 この2つの方法を、この激動の時代に実践した2人の人物。 そういう意味では、今の日本がこういう形で残っていることを考えると、 やっぱり・・・人かな?と思います。よって勝海舟! でも演じるなら、間違いなく小栗上野介です。 悲劇の人物を演じるというのは、役者にとってはやりがいがあります。 これだけいろいろな事をしてきた人物が最後、悲劇で終わる。 小栗の悲劇の人生は、演じてみたいですね。