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「江戸庶民文化の花形、浮世絵。18世紀半ばには鈴木春信や喜多川歌麿などの人気絵師が次々に登場し、黄金期を迎えようとしていた。そんな中、その男は突如として現れた。 今にも動き出しそうな迫力ある構図、人間の特徴を冷徹に描き出すその筆遣い。 その男の浮世絵の前に、江戸の庶民は思わず息をのんだ…。 ところが、男はわずか10ヶ月の後に姿を消す。彗星の如く現れては消えた 謎の天才・東洲斎写楽である。 そして、時を同じくして、同じ役者たちを描いた絵師がもうひとり…歌川豊国。後に浮世絵界の最大流派、歌川派の総帥となる人物である。 写楽と豊国、10ヶ月の攻防戦は時代の枠を越え、今なお大論戦を巻き起こす!! 今回は江戸の、否、日本の文化水準を高めた二人の浮世絵対決に迫る!!
寛政6年1月。江戸三座の正月歌舞伎興行に合わせ、芝の板元・和泉屋市兵衛は新たな役者絵のシリーズを売り出した。絵師は当時売り出し中の歌川豊国。 役者の立ち姿を優美に描いた絵は、大衆の心を掴んだ。このまま役者絵は豊国の一人勝ちになるかと思われたその矢先…思わぬライバルが出現する。 5月興行になり、日本橋の蔦屋重三郎もまた役者絵販売に乗り出す。絵師は全く無名の東洲斎写楽。そのデビューは何から何まで型破りだった。新人にもかかわらず、28点もの作品を一挙に発売。そして、豊国が役者の立ち姿を描いたのに対し、写楽は「大首絵」と呼ばれる半身像、アップのみで勝負に出た。斬新。衝撃的。その存在から作品までもが、極めて異質な写楽の登場。伝統と革新、秀才と天才のプライドを賭けた対決は ここに始まった!!
写楽の新しさは、豊国を圧倒していた。版元の蔦屋は天才・写楽の勝利を確信し、ほくそ笑む。ところが、結果は全く違っていた。そう、写楽は売れなかったのだ。 当時、役者絵とは人気役者のブロマイドのようなもの。異彩を放つ写楽の絵は世間のニーズと合致しなかった。人間の本質まで描き切るかのような芸術性は求められていなかったのだ。 豊国に敗れた写楽は、忘却の彼方へと葬り去られた。明治時代に発行された浮世絵師の番付は歌川派で埋め尽くされ、写楽の名は無い。二人の勝負は豊国の完全勝利か・・・・。 それから百年以上がたったころ。ドイツの浮世絵研究者、ユリウス・クルトが一冊の本を刊行する。タイトルはずばり「SHARAKU」。この本で写楽は絶賛を浴びる。日本ではとうに忘れ去られていた男が、「世界の写楽」になったのだ。 二人の天才絵師のライバル対決。はたして、真の勝者は…。
日本人の目を信じるか?ドイツ人の目を信じるか?となると、今回は豊国、ですかね。 我々が外国人に言われて「浮世絵」なるものを再び評価する、ということではなく、その浮世絵を見て楽しんだり芸術性を見出したり、そういう我々の祖先の日本人が持っていた感性を信じてい行きたいな、と。 もっと日本人は、日本を大事にすべきかな、と思うところもあります。 なので今回は「歌川豊国」! でも役者として「描いてもらう」なら、演じ切る性根みたいなものまで表現してもらいたいので、どちらかといえば「写楽」に描いてもらいたいですね。 自分のイヤな部分まで描く、というところに人間的なものを感じます。 そこまで表現してもらった方が、一枚絵や写真になるのであれば、その奥にある性根みたいなものまで描いてくれれば、ありがたいな、と。 しかし写楽に書いてもらえるなら・・・いくら出したらいいんでしょうか?!
写楽の絵は、私の母の祖国、ポーランドでもその複製絵を目にするくらい、日本の代名詞となっている作品というイメージでした。 それが、当時の日本では全く売れていなかったなんて。 作品の見方は時代によって変わるんですね。 そしてその背景にある版元の存在…さまざまな思惑が入り組んだ対決でした。 豊国は、秀才型。国際的には写楽の方が今は評価されているかもしれないけれども、私はその後も後世に多大な影響を及ぼした豊国の絵にもとてもひかれます。