#92-93 2016年3月11日(金)放送 本能寺の変スペシャル

本能寺の変スペシャル

今回の列伝は戦国史上最大の事件「本能寺の変スペシャル」。信長の天下統一が目前に迫った天正10(1582)年、光秀が起こした驚天動地の政変に家康、秀吉、勝家らは決断を迫られた。そして、京都にいた織田家嫡男信忠の選択は、その後の日本の歴史を大きく変えることになる。歴史が動いた瞬間、武将たちはどう動いたのか!?日本史のターニングポイントに迫る。

ゲスト

ゲスト 作家
童門冬二
ゲスト 歴史学者
本郷和人

一の鍵 「信忠の別心」

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徳川家康につかえた武将・大久保彦左衛門が記した『三河 物語』には本能寺で敵の襲撃を知った信長が思わず発した言葉が記されている。「上之助が別心(謀反)か!」上之助とは、嫡男・織田信忠。なんと、信長がとっさに疑ったのはわが子の謀反だった。

織田家の跡を継ぐ者として帝王学を学び、長島一向一揆、長篠の戦いと歴史的な一戦に参戦。「天下統一」に突き進む織田軍団の中で、信忠は成長していく。そして、天正4年。織田家の後継者として、美濃・尾張の二カ国、およそ100万石の領主となった。
しかし・・・これまで父の期待に沿うほどの大きな武功は挙げられていなかった信忠。戦国の世を差配するものとして、致命的だった。何よりも、農民出の羽柴秀吉、浪人から這い上がった明智光秀と実力で地位を勝ち取った重臣たちを付き従わせるためには、目に見える武功を挙げなければいけない。

天正10年2月、焦りの中にあった信忠に、大きなチャンスが訪れた。天下統一を目指す信長にとって宿願であった武田家滅亡。信忠はその織田家の命運を決定づける大一番の総大将を任され、甲斐の国へ進軍を開始。信濃にある武田の高遠城を、3万の兵で取り囲んだ。敵兵はわずか3000。負けるはずのない戦だった。

ところが・・・10倍の戦力にもかかわらず、一向に高遠城が落とせない。このまま、おめおめと敗れるわけにはいかない!!信忠は、覚悟を決め、武田の鉄砲をものともせず自ら塀をよじ登り、敵城に攻め入った。大将の決死の行動に、軍勢は奮い立ち、続々と突入。高遠城はついに陥落・・・。さらに、天正10年3月11日、天目山の戦い。信忠の手によって武田勝頼を自決に追い詰め、武田家は滅亡。信忠26歳。本能寺の変の3か月前のことだった。

二の鍵 「家康暗殺計画!?」

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家康は同盟者・信長から命を狙われてるのではないかと不安にかられていた・・・それは武田の脅威がなくなり、今や大勢力となった自らを、邪魔者ではないのかと。そんな中、武田攻め勝利の祝宴を催したいとの理由で、信長の居城・安土城に招待された。家康は信長の敵意を殺ぐため、ひたすら恭順の意を示し、平身低頭した。しかし、不安は募る。

信長のため数々の武功をあげていた明智光秀が、信長から言われなき叱責を受けるなど冷遇され、さらに理不尽な仕打ちを受けるのを目の当たりにしてしまった。「あれだけ働いた光秀ですらこの仕打ち、いったいこの先、自分はどうなるのか・・。」更なる不安が押し寄せる中、信長にこう告げられる。「このあとは、ゆっくり京や堺を見物するがよい」

この頃、各地ではいまだ天下統一に向けた激しい戦いが行われていた。それなのになぜ今自分は、遊べと命じられているのか。家康は織田家奉行衆の案内で京都、堺に向かわざるを得なくなった。それは見張り役を付けられての道行だった。いつ殺されるかわからない・・・。行く末の不安を押し殺しながらも、京都にて静かな時を過ごした家康。本能寺の変の前日のことであった。

三の鍵 「敵は本能寺にあり」

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織田家嫡男・信忠の奮戦により成し遂げられた武田家の滅亡。それは本能寺の変を起こした張本人、明智光秀の運命をも変えることになる。

天正10年3月19日、本能寺の変のおよそ2ヵ月半前、事件が起きる。武田征伐を祝うため、総大将信忠ら諸将を集めての祝宴の席でのこと。光秀が祝いの言葉を述べると、突然信長が激昂。光秀を廊下に引きずり出し、頭を幾度も欄干に打ち据えたのだ。「この男なにゆえに我をここまで・・・」家臣として比類なき功績をあげてきた光秀に、突如降りかかった、言われなき叱責。

さらに天正10年5月、安土城で家康の饗応役を託されていた光秀は、突然、信長から秀吉の中国攻めに加わるよう命じられる。それは、格下の秀吉の軍門に下れというに等しい命だった。今まで才能ある者は、出自にかかわらず登用してきた織田政権だったが、今や信忠を始めとした織田親族が台頭。それに伴い信長は、古参の家臣を武功がないとの理由をつけ追放した。この次は間違いなく自らが追放される。光秀はついに決断する!

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天正10年6月1日。信長はこの日、わずかな家臣とともに本能寺に宿泊。家督を継いだ信忠も、すぐ近くの妙覚寺にいた。信長と信忠の兵の数を合わせても500強。一気に片が付けられる、まさに「天与」のチャンスだった。「敵は本能寺にあり!」

6月2日午前4時。明智軍本隊は、信長が宿とする本能寺を包囲。光秀はときの声を上げ、一斉に銃撃を開始。軍勢は塀を乗り越え、寺の中へと雪崩れ込んでいった。

四の鍵 「信忠の決断」

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天正10年6月2日午前6時頃。本能寺の変勃発。本能寺のすぐ近く妙覚寺に就寝していた信忠は、家臣の報告により、すぐさま父・信長を救うため、飛び出そうとした。しかし、その時、更なる衝撃の事実を知る。「御殿が焼け落ちました!」

父・信長の死。あの偉大なる父が、天下統一を目前にあっけなく死んだというのか・・・悲しみに浸る間もなく、信忠はすぐさま危機を察した。信長亡き後、光秀が次に狙うのは、自らの首。すぐにも明智の大軍がここにも押し寄せてくるだろう。手勢500では到底、太刀打ちできない。退却か、籠城か?混乱の中、信忠は究極の二者択一を迫られた。

そして、信忠が下した決断は二条御所での籠城。明智軍1万3000が取り囲み、一斉攻撃を仕掛けてきた。信忠は、自ら太刀を持ち、敵兵と果敢に戦った。しかし・・・!明智軍の鉄砲隊が火を噴き、逃げ場のない信忠の兵は、次々と倒れていった・・・「もはやこれまでか・・」信忠はついに、自害を決意・・・。織田家、天下布武の夢は・・・潰えた。

五の鍵 「神君伊賀越え」

天正10年6月2日午後、大阪の東に位置する飯盛山。京都に戻る途中だった家康は、家臣によって信長の死を知らされた。そしてその瞬間、巨大な織田家の領土は危険地帯と化し、周りが敵だらけとなった事を悟った。この時家康一行は、わずか30人。武器もなく丸腰同然。周辺では〝落ち武者狩り″が横行。家康の首を取って、明智方に渡せば相当な恩賞が預かれると槍や刀で武装した土民たちが至る所で待ち構えている。「自ら腹を切る」と家康は死を覚悟した。しかし、家臣たちは、猛反対。逆賊、明智を討つために即刻、本国三河へと戻り、兵を挙げよと家康に進言。絶体絶命の窮地にたった家康、その最終決断は・・・「三河に戻る」わずかでも生き残る可能性にかけたのだ。しかし、最大の問題は、逃走ルートだった。

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三河への主要な街道は、既に明智の軍勢に掌握されているはずであろうと考えた家康一行。多くの落ち武者狩りが潜む伊賀周辺を突破する最短ルートを通るしか選択肢は無かった。こうして、家康最大の危機、世に言う「神君伊賀越え」が始まった。

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六の鍵 「大返し」

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本能寺の変が起きた時、各地で激戦を繰り広げる織田家の武将たちに迫られた決断。越中にて上杉軍と交戦中であった柴田勝家は、上杉軍の追撃を恐れ、自領に留まった。四国攻めのため摂津にいた丹羽長秀は、率いていた足軽たちが動揺して一斉に逃亡したため、光秀討伐を断念。関東にいた滝川一益は北条軍に攻め込まれ、関東撤退を余儀なくされた。誰もが急報に驚き、すぐさま己の進退に迫られていく。しかし、羽柴秀吉は備中にて激戦を繰り広げる中、ある奇策に打って出る。なんと信長が生きていると嘘の情報を流し、一方で宿敵・毛利との和睦に動き始めたのだ。

電撃的奇襲を成功させた光秀は、次の一手を打っていく。信長の居城・安土城を制圧。さらに、朝廷や影響力のある寺院に金銀を献上。そして本能寺の変から5日後には、誠仁親王から京都守護の勅命を受けることになった。京都を掌握し一気に権力の基盤を固める光秀。次なる備えは、織田家の有力家臣との決戦。光秀は力強い味方がいたため勝利を確信していた。

ところが、ここから運命は思わぬ方向へと進んでいく。最も信頼していた細川藤孝が突然出家。度重なる要請にもかかわらず支援を拒否され、関係は完全に断たれた。さらに、かねてから合流を申し合わせていた筒井順慶も、約束を反故にし、兵を出さず日和見を決め込んでしまう。光秀に、誤算が生じ始めていた。そして、本能寺の変から10日後、光秀は震撼する。秀吉の大軍が、京に迫っているという報せが届いたのだ。「まさか、そんなことが・・・!!」毛利との休戦交渉などを考慮すると、どんなに早くても一月はかかるはず。ところが秀吉は短期間で和睦を成功させ、2万の兵を謀反からわずか10日足らずで京都へと戻していた。世にいう「中国大返し」である。

そして、天正10年6月12日、京都・山崎で両者が激突した。光秀軍1万6000。対する秀吉軍は、丹羽長秀らの軍も加わり4万に膨れ上がっていた。圧倒的な兵力をもって繰り出される猛攻に、光秀軍は総崩れとなり、短時間で決着。秀吉が天王山の戦いを制した。明智光秀は敗走し、途中で農民の落ち武者狩りに遭い、あっけなく、その生涯を終える。

本能寺の変から、わずか11日目のことであった。一夜にして歴史が塗り替わったこの大事件により究極の選択を迫られた戦国武将たち。その勝者となったのは、本能寺の変をチャンスととらえ光秀に真っ先に戦を挑んだ羽柴秀吉であった。

六平の傑作

本能寺の変をどうとらえて、どう動くかで、名だたる戦国武将の
その後の運命が、180度変わってしまった。
その武将たち、一人一人の内面と行動が実に面白かった。
「死ぬ」のを選んだ信忠、どんなことをしても「生き延びる」ことを
選んだ家康。「チャンス」ととらえた秀吉。
その時々の武将に、本音を聞いてみたい気がします。