#91 2016年2月26日(金)放送 青い目のサムライ 三浦按針

三浦按針

今回の列伝は家康の外交顧問三浦按針(ウイリアム・アダムス)。天下分け目の関ヶ原の戦いが目前に迫った1600年、1隻の船が大分に漂着した。船員であったアダムスは、家康と対面したことで運命が大きく変わっていく・・。英国人でありながら、なぜ武士の道を選んだのか。青い目のサムライの波乱の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 歴史時代作家
仁志耕一郎

今回の歴史列伝は、江戸幕府初期に旗本として仕えたイギリス人・三浦按針。
本名はウィリアム・アダムズ。船乗りとして日本に漂着したアダムズは、数多くの西洋式武器を徳川家康に提供。家康はその武器を関ヶ原の戦いに使用したと言われている。その後、家康に寵愛されたアダムズは、外交担当として仕え、幕府の交易に携わる。さらに家康の命を受け、日本で初めて西洋式の大型帆船を製作。やがて三浦半島に250石の領地を与えられ旗本となった。三浦按針と名乗り、サムライとなった後も、本国イギリスとの交易などに尽力し、故郷に帰ることなく日本で生涯を終えた。数奇な運命を辿った三浦按針の波乱万丈の人生に迫る。

一の鍵 「大砲」

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関ヶ原の戦いの半年前、日本に突如、大型の西洋船が漂着した。オランダ船リーフデ号だった。しかし無謀な航海の末、生き残った乗組員は24名。うち動けるものは数名しかいなかった。その中で比較的元気だったのが、イギリス人の船乗り、ウィリアム・アダムズだった。西洋船漂着の報せは、天下分け目の戦い控えた徳川家康に伝わる。家康はすぐさま船長を呼びつけるが、船長は重傷で動けないため代わりに一航海士であるアダムズが向かった。

それは命がけの面会だった。当時、日本にはポルトガルやスペインの宣教師がおり、家康をはじめ多くの武将たちと関係を築いていた。しかし彼らはアダムズたちイギリスやオランダの敵国であり、宗教においてもカトリックとプロテスタントで対立していた。ポルトガルやスペイン人はアダムズたちを海賊と伝え、家康をはじめ日本人の権力者に直ちに処刑するよう要請していたのだ。アダムズは殺されるのを覚悟で家康と面会した。家康は日本に来た目的や積み荷のことなど様々なことをアダムズに聞いた。アダムズは全ての質問に正直に、ありのままを答える。そして船に最新式の大砲19門や鉄砲500丁など大量の武器・弾薬があることを伝えた。これこそ家康が欲しかったものだった。家康は海外の情勢に詳しく、何事にも真摯に答えるアダムズの利用価値を見出し、処刑しないことに決めた。こうしてアダムズたち乗組員たちは江戸幕府に保護されたのである。

1600年9月15日、美濃国関ヶ原で起こった天下分け目の戦い。この家康の切り札として、アダムズたちが持ち込んだ大砲をはじめとする西洋武器が火を吹き、東軍の圧勝となった。

二の鍵 「青い目のサムライ」

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1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸幕府を開くと、ウィリアム・アダムズは外交担当として江戸城に呼び出された。アダムズは豊富な知識を生かし、幕府の外交交渉の通訳や助言をした。また西洋学問に興味の深い家康に対し、数学や地理、天文学など、自分が航海術を通して身に付けた様々な知識を伝えた。家康はアダムズを寵愛した。そのためアダムズが帰国を願い出ても決して許さず、自分の元を離れないという証文まで書かせたのである。

そのうちアダムズは日本でお雪と結婚。二人の子供を授かる。ちょうどその頃、アダムズは家康から難題を申し付けられる。それが大型の西洋式帆船を造れというものだった。造船の技術があるとは言え、一から日本で造るのは至難の技。アダムズは断るも何度も家康に頼まれ、引き受けることに。日本での西洋船造りに着手したアダムズは伊豆の伊東に注目する。ここは和船の造船が盛んだった。さらに伊豆の山々から良質の木材を入手できた。アダムズは優秀な船大工を引き連れ、砂浜に大きな穴を掘り、簡易の造船ドックを造る。そしてそこで120トンの西洋式大型帆船を造り上げた。

スピード、耐久性、操作性に優れたこの船は、メキシコまで航海に成功。江戸幕府の重要な外交に用いられた。アダムズの功績に満足した家康は異例ともいえる褒美を与える。それが武士という身分。アダムズは旗本となり三浦半島の逸見に250石の土地を与えられ領主となる。さらに三浦按針という名前も与えられた。按針とは水先案内人という意味。三浦半島を治める、幕府の水先案内人となったのだ。もともと貧しい平民だった按針は、領民たちを大切にして公平に接したそのため領民たちからも大変慕われたという。

三の鍵 「日本愛」

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三浦按針となったウリィアム・アダムズは本国イギリスに向けて手紙を送っている。そこには自分の存在を伝える内容から、自分がいればイギリスも日本と交易できると書かれていた。

すると1613年、その手紙を見たイギリス人たちが貿易を行うため国王の親書を持って日本にやってきたのだ。按針は実に15年ぶりにイギリス人と対面。母国語で喜びを語りあった。ところが・・・イギリス人たちは日本の文化や風習を理解できず、日本の武士の恰好をし、日本人のように振る舞う按針に対し、嫌悪感を示したのだ。

それでも按針は幕府とイギリスの交易成立のため奔走する。徳川家康との謁見を取り付け、イギリス人たちに日本式の作法を教える。また日本人への贈り物の数まで細かく指導した。このようなアダムズの尽力があり、1613年11月、日英貿易が決まったのである。そしてその頃、按針は家康から思いもよらない言葉を告げられる。それがこれまでの按針の働きを評価し、帰国を許可するというものだった。念願だった帰国をようやく果たすことができる。歓喜の按針。しかし・・・新たな苦悩が始まった。

日本に流れついて13年。日本には妻子もおり、自分を慕う領民たちもいる。帰国すれば彼らはどうなるのか。またイギリスに戻れば按針はただの平民に。英国の荘園領主にも匹敵する日本での地位を捨てなければならない。悩んだ末に按針が出した答えは・・・日本に残るというものだった。その後も按針は家康の夢である交易拡大に向けて、東南アジアなどの交易に尽力した。そして家康の死から4年後、病に倒れた按針は、周囲の人々に見守られながら54歳の波乱の人生を日本で終えたのである。

六平の傑作

三浦按針がいなかったら、関が原に勝てなかった!?
そんな説もあったんですね。
不思議な人のめぐり合わせが歴史を動かしていったんだね。