今回の列伝は日本で近代文学を作った小説家、夏目漱石。漱石はなぜ小説家になり、文学史に残る金字塔を打ち立てることができたのか?英文学研究を志した明治期の超エリートであった漱石。しかし、その人生は苦悩と絶望の日々であった。一匹の迷い猫との出会い。文豪誕生の物語に迫る。
今回は、日本の近代文学の父、夏目漱石。漱石が、処女作「吾輩は猫である」を発表したのは、明治38年。西洋に追いつけ追い越せと、文明開化に邁進する日本を猫が笑うという異色の小説だった。漱石がこの作品を書いたのは38歳のとき。その後、わずか11年の間に、次々と傑作を世に送り出していく。なぜ漱石は、突如として小説家となり、日本の文学に金字塔を打ち立てることができたのか?傑作誕生までの迷いと苦悩を、3つの鍵で解き明かす。
夏目漱石が生まれたのは、激動の幕末、1867年。高齢の両親の間に生まれ、すぐ上の兄と9歳も離れた、恥かきっ子の漱石は、古道具屋に里子に出されてしまう。がらくたと一緒に毎晩店先にさらされていた漱石を見つけた姉が不憫に思い、家に連れ戻すが、父は、またすぐに里子に出してしまう。今度の家では、物心つくころになると、たびたび「お前のお父さんは誰だい?」「お前のお母さんは?」と尋ねられる。本当の親と思っていた漱石は、繰り返される不自然な問いに嫌気がさすようになった。
9歳の時、養父母の離婚によって老夫婦の家にうつされた。漱石は、自分の祖父母に引き取られたと思い込んでいたが、下女から、「あなたがお爺さんお婆さんだと思っていらっしゃるかたは、ほんとうはあなたのお父さんとお母さんなんですよ」と告げられる。幼い漱石は大混乱に陥った。のちにこう振り返っている。「ばかな私は、ほんとうの両親を爺婆とのみ思い込んで、どのくらいの月日を空に暮らしたものだろう」漱石が夏目家に復籍する際に交わされた証文には、240円で、漱石が夏目家に買い戻された事が記されていた。
漱石は、グレた。学校をさぼっては、家にあった古い本を読みふける毎日。それでも成績は良く、東京府第一中学校に入学。しかし2年後に中退。漢学や漢詩を学びたいと、二松学舎に入学するも、兄に、「そんな古いもの、この時代に役に立つまい!」としかられると、あっさり中退!今度は塾に行って、英語を学び、1884年、なんとか東京大学予備門に入学する。日本の将来を担う秀才たちが集結した予備門だが、漱石はここでも、勉強をなまけて、ボートや水泳、寄席通い。試験の度に成績が下がり、ついに落第してしまった。
そんな漱石も、21歳になり、将来の職業につながる専門を選ぶ時がきた。食いっぱぐれのない職業として思いついたのは、建築家。世はまさに西洋建築ブームだったのだ。しかし友人から、「お前は打算的すぎるよ。人生をかけた大仕事をするべきじゃないか」と言われ、こう決断した。「そこでいよいよ英文科を志望学科と定めた。外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望を抱いていた。」世界に冠たる大英帝国の文学を学び、一旗あげてやろうという野望を胸に、晴れて帝国大学の英文科に入学した。
26歳になった漱石は、帝国大学の英文科を卒業したが、就職が決まらず、その時の事をこう振り返っている。「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです」そんな時友人から、破格の給料の英語教師の口を紹介され、四国・松山の愛媛県尋常中学校に赴任した。しかし、生徒に「帝大を出たようなえらい先生がこんな田舎の中学に来るはずがない」「道後の温泉にはいって保養でもするつもりだ」と噂され、自分は教育者に向いていないと、漱石の悩みは深くなった。
そんな時、東京大学予備門時代からの親友、正岡子規が、故郷の松山に帰ってくる。子規は、漱石の家に転がり込み、共同生活を始める。持病の結核を抱えながらも連日俳句の会を開き、ぶれる事なく自分の好きな道を突き進む子規と文学談義を交わすうちに、漱石は英文学を究める志を思い出す。このころ貴族院書記官長の長女・鏡子と結婚するが、新婚早々、「俺は学者で勉強しなければならないんだから、おまえなんかにはかまってはいられないんだ!」と宣言する。
そして33歳のとき転機が訪れ、文部省から、英語研究のため2年間のイギリス留学を任命される。大学の講義に出て、勉強を始めるが、当時もてはやされていた思想に愕然とする。それは、ダーウィンの進化論を拡大解釈した、白色人種がもっとも進化しているという考え方。文学においても、白色人種が優性であるという。さらに、当時流行していた、「退化論」という本によると、病気を免れるために予防接種を受けるような人間は、本来は自然淘汰されるべきだという。幼い頃に種痘を受けた漱石にとって、顔に残った「あばた」はコンプレックスだった。差別思想に打ちのめされた漱石は、何のためにロンドンまで来たのかわからなくなってしまった。
追い打ちをかけるように、一通の手紙が届く。病の床にある親友・正岡子規からだった。「僕ハモーダメニナツテシマツタ僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君も知ッテルダロー君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」親友が、来たくても来られない憧れのロンドンで何も成し遂げられない漱石。まもなく子規は帰らぬ人となり、やがて漱石は、心の均衡を失っていく。
ロンドンから帰国した漱石は、東京帝国大学と第一高等学校の講師を兼任するが、学生の評判は散々だった!漱石の前任講師は、学生から大人気だった小泉八雲ことラフガディオ・ハーンで、比較されてしまったのだ。さらに、第一高等学校で受け持っていた生徒が、自殺する。一方家では、妻の父が失職し、借金の保証人になってくれと頼まれる。仕事も生活も思うように行かない中、癇癪の虫がうずき、家族に手をあげては、自己嫌悪に陥った。ストレスから胃に激痛が走る。漱石は友人に手紙を書いている。「胃病、脳病、神経衰弱症併発医者モ匙ヲ投ゲルト云ウ始末」
どん底まで落ち込んだ悩める漱石を見かねて、友人・高浜虚子が声をかける。文芸雑誌「ホトトギス」の編集をしていた虚子は、正岡子規の弟子にあたり、漱石とも学生時代からの文学仲間だった。虚子は、気晴らしに小説でも書いてみたらどうかと勧める。その時、漱石の脳裏に、数ヶ月前自宅に迷い込んだ猫の姿が思い浮かんだ。猫嫌いの妻・鏡子は、猫を見つけては外に放り出したが、すぐに戻ってきてしまう猫を、漱石は家に置くことにしたのだ。「あの猫が、しゃべり出すというのはどうだ?」漱石はペンを取った。
そして明治38年、処女作「吾輩は猫である」発表。猫が住みついた家の主人は、中学校の英語教師、珍野苦沙弥。猫は主人を、「教師というものは実に楽なものだ。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はない。」と一笑に付す。猫は、人間社会に不満たらたら。苦沙弥先生の隣で、西洋かぶれの日本人や、金に左右される人間を、笑い飛ばす。だが猫は、この主人との暮らしが、案外嫌いではないことに気付くのである。人間社会の滑稽さや生きにくさを、シニカルなユーモアと洒脱な語り口で描き出した「吾輩は猫である」は、読者の圧倒的な支持を得て大ヒット。漱石は「ただ書きたいから書き、作りたいから作った」と語っている。夏目漱石、38歳。こうして、一人の小説家が誕生した。
あの文豪が、露店の店先に置かれてたって・・・。
そんな赤ちゃん時代があったとは驚きでした。
孤独や不安や、自己喪失を抱えて、何をやっても駄目。
悩みぬき、落ち込むことも、人間、何かの役に立つもんなんだと
漱石の人生に教わりました。