今回の列伝は石田三成。関ヶ原の戦いで西軍を主導し、徳川家康と対峙、歴史に名を残した。秀吉の五奉行に過ぎなかった武将が何故、家康を追い詰めることができたのか。天下分け目を演出した三成の野望に迫る。
天正18年。豊臣秀吉は、小田原征伐によって北条氏を滅ぼし、事実上の天下統一を成し遂げる。戦いに明け暮れた戦国時代は終わりを告げ、政治によって治められる時代へ。秀吉側近の代表格、戦のプロの軍師・黒田官兵衛と入れ替わるように台頭してきたのが、増田長盛、小西行長・・・そして、石田三成であった。
慶長5年、三成を失脚させた家康は、自分の命に従わない五大老の1人、上杉景勝に対し、豊臣への謀反の疑いありと糾弾。会津征伐へ向かった。天下を手中におさめようとする、家康の行動に三成も動く。慶長5年7月12日。三成は打倒家康に向けての戦略会議を開いた。大谷吉継、参謀・島左近。奉行・増田長盛、さらに毛利の外交僧・安国寺恵瓊など、同じ政務官人同士を通じ、多数派工作に乗り出すと、作戦は功を奏し、毛利輝元を初めとする、反徳川の西国大名達が三成側につき、わずか2か月で15万8千もの軍団が形成された。
石田三成、悔しかっただろうなぁ。最後の最後で、小早川秀秋に裏切られたとき。
信長、秀吉と進んできた貿易国家を、自分の手で作り上げたかっただろうな。
三成が勝っていたら、今の日本は全く違う国になっていたと思うと
歴史って不思議だなと思います。