#88 2016年2月5日(金)放送 関ヶ原の戦い 西の立役者 石田三成

石田三成

今回の列伝は石田三成。関ヶ原の戦いで西軍を主導し、徳川家康と対峙、歴史に名を残した。秀吉の五奉行に過ぎなかった武将が何故、家康を追い詰めることができたのか。天下分け目を演出した三成の野望に迫る。

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黒鉄ヒロシ

一の鍵 「理想郷」

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天正18年。豊臣秀吉は、小田原征伐によって北条氏を滅ぼし、事実上の天下統一を成し遂げる。戦いに明け暮れた戦国時代は終わりを告げ、政治によって治められる時代へ。秀吉側近の代表格、戦のプロの軍師・黒田官兵衛と入れ替わるように台頭してきたのが、増田長盛、小西行長・・・そして、石田三成であった。

26歳で政権の行政官ともいうべき、五奉行の一人になると、三成は新たな統治システムが必要と確信し、刀狩り、太閤検地、都市や港の再開発など、先進的な改革に着手していく。流通ルートの確保、将来の大陸との貿易による経済発展が目的だった。しかし、三成が重用される一方で、これまで合戦を勝ち抜き、武功でのし上がってきた「武断派」の諸将たちは、慣れない領国統治に神経をすり減らし、奉行としてそれを強いる三成に対して、強い不満が募っていた。その軋轢は、三成が「朝鮮出兵」で和睦を結んだことで、決定的となる。

二の鍵 「古狸(だぬき)」

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文禄2年、秀吉の側室・淀殿が子を産んだ。当時57歳の秀吉は、理性のタガが外れたかのように、我が子「秀頼」を溺愛し、後継者として既に関白の座を譲っていた甥の秀次を高野山へ追放、ついには自害へと追い込んでしまった。さらに、まだ2歳の秀頼に、忠誠を誓わせる血判状を、全国の諸大名に提出させていく。老いた秀吉の暴走に、三成が強い危機感を抱く中、慶長3年に秀吉が死去。すると、豊臣政権の実力者である徳川家康は、秀吉が固く禁じていた「有力大名との婚姻」を勝手に結び、勢力を拡大。公然と秀吉の遺命に背き始める。三成が詰問するも、家康はのらりくらりとかわし、逆に「武断派」諸将たちとの諍いを理由に、三成は奉行を退任させられてしまう。

三の鍵 「大義あり」

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慶長5年、三成を失脚させた家康は、自分の命に従わない五大老の1人、上杉景勝に対し、豊臣への謀反の疑いありと糾弾。会津征伐へ向かった。天下を手中におさめようとする、家康の行動に三成も動く。慶長5年7月12日。三成は打倒家康に向けての戦略会議を開いた。大谷吉継、参謀・島左近。奉行・増田長盛、さらに毛利の外交僧・安国寺恵瓊など、同じ政務官人同士を通じ、多数派工作に乗り出すと、作戦は功を奏し、毛利輝元を初めとする、反徳川の西国大名達が三成側につき、わずか2か月で15万8千もの軍団が形成された。

そして、慶長5年9月15日、関ケ原。三成は家康側・東軍を上回る、8万4千もの軍勢をそろえた。結果は負けてしまったものの、三成は日本史上最大、天下を二分する一大決戦の立役者となり、歴史にその名を刻んだ。

六平の傑作

石田三成、悔しかっただろうなぁ。最後の最後で、小早川秀秋に裏切られたとき。
信長、秀吉と進んできた貿易国家を、自分の手で作り上げたかっただろうな。
三成が勝っていたら、今の日本は全く違う国になっていたと思うと
歴史って不思議だなと思います。