今回の列伝は大槻文彦。日本最初の国語辞書「言海」の編纂者。明治新時代に入り、近代国家として国語の統一が急務であった。その大事業として国語辞書の編纂を命じられたのが、文部官僚の大槻。しかし、その作業は想像を絶するものであった。11年に及ぶ労苦の末、たった1人で草稿を完成。しかし、文部省はその辞書を世に出すことしなかった・・。4万語に及ぶ「言海」誕生までの波乱の物語。
今回の列伝は日本初の国語辞書『言海』を作った「大槻文彦」。
現代のように言葉が体系化されていなかった明治初頭。文部省の職員であった29歳の大槻は、突如国語辞書作りを命じられる。しかし、作業はたった一人。地道にひとつずつ言葉を集めていくしか方法はなかった・・・。孤軍奮闘17年をかけて辞書を作った男の半生に迫る!
明治初頭。近代国家を目指していた日本には、未だ母国語を体系化した辞書はなかった。そこで文部省は“日本語の統一”を目指し、国語辞書作りプロジェクトをスタートさせる。当時29歳の大槻は突如辞書作りを命じられるが、作業はなんと“たった一人”だった。大槻が抜擢されたのには理由があった。祖父が蘭学者、父が儒学者という学者一家の家系で学問に秀でていた事。さらに大槻は英学も修めており、辞書作りに必要な“和漢洋”の素養が既にあったのだ。
しかし、早速辞書作りに取り掛かった大槻はいきなり難題に直面する。まずはアメリカの辞書を参考にするも、英語には日本語にない表現が山のように存在していた事に気付いた。しかたなく医学書や動植物の事典をはじめ、ありとあらゆる学術書を漁り、一語ずつ言葉を採取していく・・・。だが、あまりにも膨大な言葉の数々。くじけそうになった大槻は、この時の気持ちをこうつづっている。
「言葉の海のただなかに楫緒絶えて いずこをはかと定めかね
ただその遠く広く深きに呆れて おのが学びの浅きを恥じ責むるのみなりき」―『言海』あとがき(ことばのうみのおくがき)
大槻の前にさらなる難題が立ちはだかった。それは“外来語”。「ピストル」「ガス」「ポケット」など、文明開化によって多くの言葉が増えた明治時代。日常的に使われる言葉であれば辞書に採用しなければならなかったのだ。
外国語の辞書を引いても分からなければ、大槻は文部省を飛び出した。専門家をつかまえ質問攻めに、時には通行人を捕まえ言葉をメモに書き留める、わからない言葉があれば遠出もいとわない。本を読み漁るだけではなく、足でも言葉を探したのだ。そして大槻は「ペケ」という外来語をこのように辞書に採用した。
ペケ
オランダ人が馬鹿をBakaと記し、イギリス人が“ベケ”と読んだことから。横浜居留地の訛り言葉。よからず、という意味。
―『言海』P.913
言葉の海と格闘し続け11年。ついに大槻は国語辞書の草稿を完成させ、文部省に提出。“あとは出版を待つだけ”のはずだった・・・。
辞書の草稿は、なんと2年間も文部省で眠り続けていた。
大槻は文部省と掛け合い、なんと“私費出版”という道を選ぶ事ことに。国家プロジェクトのはずが、自費で辞書を刊行することになったのだ。大槻は資金繰りに奔走し、何とか予約出版という形をとり出版の目処を立てる。しかし、発売予定日を過ぎても辞書は出版されなかった・・・。
大槻はより完全な状態で出版する事を目指し、最後の最後まで原稿を赤でチェックしていたのだった。さらにはこの段階で語釈の修正も加えはじめていた。
そして、原稿の最終チェックが“やの行”になったとき、大槻を思わぬ悲劇が襲う。最愛の娘が病死してしまい、1か月後には妻のいよが腸チフスで亡くなってしまったのだ。妻いよが亡くなった時、大槻は“らの行”のある言葉をチェックしていた。
露命【ろめい】 ツユノイノチ。ハカナキ命。―『言海』P.1801
その4か月後、ついに日本初の国語辞書『言海』が完成。編纂から出版まで17年の歳月を要して、そのすべてを終えた。『言海』の評判は瞬く間に広がり、8か月後には第2版が刊行。現在に至るまで様々な形で刊行され、700以上の版を重ねた。
日本初の国語辞典は、1人の人の手によってつくられていたなんて、驚愕です。
その上、せっかくまとめあげた草稿がお蔵入りになって
「自費出版!」?ありえないでしょ。
いったい、どんな途方もない作業だったのか。
言葉に係る役者として、尊敬以外何ものでもありません。